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イタリア人になりたくて

最近読んだ本。
最後はなぜかうまくいくイタリア人。

イタリアにはもちろん縁もゆかりも無い。
ただ最近色々辛いので、呑気そうなイタリア人に惹かれて読んだ1冊。

やっぱり呑気だった。
羨ましい。
時間は守らないという。
12時集合だと14時くらいに集まるのがデフォ。
が、14時くらいには集まる。
それはもう14時集合の暗喩ではないか。
それでいいのかイタリア人。

イタリア人は計画性がないらしい。
電車もよく遅れる。
だが気にしない。それが普通だから。そして許容する。自分もそうだから。
面白いほど国民性と公共サービスが連動している。
電車が遅れない日本と、時間に遅れない日本人はイタリア人にとってきっと窮屈だろう。
日本人の僕でさえ窮屈に感じることは多い。
イタリア人なのかもしれない。

イタリア人は美しいものやカッコ良いものが好き。
ルールもそう。
守る気もない、とんでもなく厳しいルールを自分たちで作るのを好む。
なぜそんなバカみたいなことしてるのか。
厳しいルールを課せられている自分たちがカッコ良いらしい。
バカみたいではなくバカだった。
だが、愛すべきバカである。
そんなイタリア人になりたい。

僕もイタリアに行けば、呑気に楽しくイタリア人をやれるのだろうか。
と思ったが、僕は別にイタリアに行きたいわけではない。
よく考えると、イタリアには縁もゆかりも興味も無いのである。
だが、イタリア人にはなりたい。
いや、本当はイタリア人でなくともいい。
アメリカ人でもいいし、中国人でもいいし、インド人でもいい。
なりたいというか、本当は他の日本人の皆さんに、僕のことを日本人だと思わないでほしいだけ。

最近辛いと思った時に、よく思うこと。
もう僕のことは金輪際、日本人だと思わないでくれ。
心底そう思っている。
ミスとかなんとかの前に、そもそもの物事の捉え方でのすれ違いが多いような気がするのである。
その捉え方の違いで、善悪が決められてしまうような。
イタリア人がイタリア人であることを、日本人が日本人であること自体を否定されているような。
どこまでが考え方の違いで、どこからが常識で、非常識なのか。
いつも境界線は曖昧で、白黒つくものじゃないはずなのに、気づけば優劣はついてたり。

時間通りに電車が来て、時間通りに打合せが始まって、時間通りに何不自由なく進んでいく日本の日常の中には、なぜか確かに不自由が存在していて。もしイタリア人になれたら、何かが解決する気がした。

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