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フラットな人間関係に一番困ってる

思い返すと、これまで体育会系な環境にいがちだった。
学生時代の部活もそうだし、新卒入社した会社もゴリゴリの上下関係で成り立ってたし。
特に社会人になってからは理不尽なことも多かったので、体育会系なノリが全く好きじゃない、と思ってけど。

体育会系の意外なメリットに気付いたのは、転職してからだった。
転職先は、1社目の体育会系気質とは程遠い、めちゃフラットな社風。
もちろん、めちゃくちゃやりやすかった。
外資ということもあり、日本特有のちょっとした言い回しに突っかかってくる面倒くさめの人も、パワハラ気味のサイコパスな人もいないし、会社人だと当たり前について回ると思っていたコミュニケーションコストはほぼゼロに近い状態で、それが無いだけで、こんなにも仕事がしやすいことに感動さえした。

でも、何かがおかしい。
仕事は間違いなくしやすいが、社内での雑談に近いコミュニケーションには何となく違和感を抱いていた。
会話の内容がどうとか、同僚がどうとか、そういうことではなく、あくまで自分の中だけで何かが気持ち悪い。

その要因を色々考えた結果、思い当たったのは、フラットな人間関係だった。多くの人には天国に思えるかもしれないその関係性が、どうやら自分は苦手らしかった。
これまでのような体育会系環境だと、当たり前のように上下関係がある。
今考えると、その上下関係から派生する理不尽な現象にはイライラしてたけど、上下関係があること自体には違和感もなかったし、むしろ、人との関係性を気付く上で、自分はめちゃくちゃ助けられていたんだと思う。

上下関係があるということは、先輩がいて、後輩がいて、同期がいて。
自分の中で無意識に、その3分類した人たちと関わる際、コミュニケーションの取り方も3パターンに分けていた。
そして、思い返せば確かに、一番苦手だったのは、同期との、つまり、フラットなコミュニケーション。
先輩に対しては後輩としての自分、後輩に対しては先輩に対しての自分としてコミュニケーションを取ればいい。
自分というものに、後輩キャラや先輩キャラを上乗せして喋るので、喋りやすいんだけど、同期に対しては、後輩キャラも先輩キャラも取り払った素の自分としてフラットにコミュニケーションを取る必要がある。

それが、出来ない。
全てを取り払った時、どういう自分でいればいいのかが途端にわからなくなる。
学生時代、同級生との会話どうしてたんだよ、と自分で自分に思った。
そして、コミュニケーションに関しては学生時代の方が頑張ってたことを思い出した。明るい感じでキャラ上乗せしてたわと。傍から見て上手くいってたかはわかんないけど、周囲に恵まれたこともあって、割と人並みの学生生活を送っていた記憶がある。
が、やはり、ときどき反動が来ていた。元々はそうじゃないので、だんだんと、学校の自分と普段とのギャップに疲れてくる。
というようなことを経て、もうそういった方向で頑張るのはやめようと思い、現在に至る。

じゃあそのまま自分らしくいればいいとか、素の自分を受け入れてくれる人と仲良くすればいいじゃん、という話になりそうで、ならないので、困っている。

このフラットコミュニケーション苦手問題は表層に過ぎず、多分一番根深い問題は、素の自分が他者に受け入れられるわけがない、とずっとどこかで思ってるところにある。と思う。
だからこそ、常に自分という人間に何かのキャラを上乗せしている気がする。
素の自分なんて、ただただ恐ろしいほど無口で暗いし、ずっと引きこもってほぼ誰とも会わないのはコロナ前から変わらないし、コロナ渦で人と会えないことに嘆く人なんて宇宙人に思えるほど理解しがたい。
そんないわゆる”素の自分”が他者に受け入れられるわけがないと、ずっと思ってるし、それは、大方間違ってないとも思う。

でも、そんなただただ無口で、ほぼ人と関わらないような人間だからこそ、無駄に自己内省する時間は多い気がする。
リアルな人との繋がりやコミュニケーションはほぼ諦めているけど、いまだに希望を持っているのは、自己内省して、自分をずーっと掘っていった先の地中で、他者と精神的にリンクする瞬間があるんじゃないかということ。
その一縷の望みをかけて、何かを作ったり、脚本やnoteを書いている、ような気がする。

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