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イタダキマスをいただきます② 付録コラム#002

不思議なニワトリ

そのニワトリは我が家に来ました。

箱を開けると丸々一羽のニワトリ。

その顔は昼寝でもしているかのような穏やかな表情。

羽や毛はなく、お腹も空っぽ。


ニワトリは毛も羽も内臓も処理された

トリニクとして我が家に来たのでした。


普段見慣れない丸々一羽のニワトリ。

いささか緊張したものの、早速調理の支度をします。

手羽元、モモ、ムネはグリルに。

その他はスープにすることにしました。


事前情報で顔の部分は砕いてスープに良いと言われていたので

穏やかなお顔に刃物を入れ、その後みじん切りの要領で砕きます。

喉の部分もカットし一緒にスープへ。


段々きつね色に焼き上がるお肉たち。

たくさんの野菜と塩のみでコトコト煮込むスープ。

しばらくすると光り輝く金色の油が浮いてきました。


その色のなんとも綺麗なこと。

誇張するわけではないのですがまるで金塊のような輝きなのです。

また、灰汁のようなものは比較的少ないように感じました。


いよいよお肉も焼き上がりスープもいい頃合い。

クリスマスなんて祝う柄ではないのですが

その晩はそのニワトリさんをいただく日でした。


まずはグリルのもも肉をいただきました。

脂も少なくさっぱりとして歯応えもあります。

しっかりしたお肉です。

変な臭みがないので塩だけでも十分な美味しさを感じます。

とにかく無言でいただきます。


さてお次はスープです。


まずはひとくち。


その時、私は今まで体験したことがない感覚に驚きました。

美味しい。

いや、美味しいとかじゃない。

スッキリしているのに旨みが、なんというか

螺旋階段の如く、吸い込まれるように深い。

そこまでは、タレントでも形容できるでしょう。

しかし問題はそこから。


螺旋階段のその奥から

あ〜幸せだ!幸せだ〜!と言う感覚が次々に湧いてくる。


私はある種の多幸感に包まれたのです。

本当に驚きました。

それはニワトリのお肉であり、精神を高揚させる薬ではありません。


初めての食体験にもはや感動しかない。

まるで自分という存在を全てを愛されているような感覚。


すごいね。

美味しいね。


無言。

ただひたすら会話のように食べ進める。


そんな時間に包まれた食卓を過ごしました。

ニワトリの生き方

そのニワトリは養鶏されていました。

東北のとある養鶏場でした。

テニスコートのような広さの圃場の周りはネットがかけられ

カラス避けのビニール線が上部に張られていました。

草原の中に植樹したと思われるまだ若い木々が見えました。

テニスコートほどの面積を見渡しても鶏がどこにいるのかわかりません。

よく探してみると集団でかたまりながら

隅っこで草をついばんだりしています。

その数わずか10羽ほど。

いや、その時はそんなにいなかったかもしれません。

「面積が一番大切なんです。」

その養鶏場のご主人がそのように説明してくださいました。

「うちは自分で卵を産んで雛を育てるようにしています。」

隣接した屋根付きの鶏舎には小さな三角形の竪穴式住居のようなものが

両端に設置されていました。

その中で卵を温めるニワトリがいました。

人間の自宅出産も10日から2週間は暗がりが良いと言われていますが

ニワトリも同じでした。


一般的な養鶏場とは違い匂いもほとんどしません。


ここは

動物福祉

いわゆるアニマルウェルフェアを理念に運営される養鶏場。

ニワトリの幸せを第一に考え育てられる場所。

お米を中心としたエサに自生している草のほか、農場で栽培される自然栽培の野菜などで飼育されています。

「人間もニワトリもクズ米やB級品ばかり食べてたら、力にならないし病気になるからね」

メインとなるお米もくず米ではなく、一般に出荷される一等米。

それも自然栽培のお米です。


テニスコートには10羽ほどが理想で、やはりスペースが一番大切なんだとか。

出荷によってはその数が多くなることも。

さらに驚きのお話を聞かせてくださいました。

「出荷の時期になって檻を置いておくと

自分から入っていく子達がいます

その子達をお肉にしています」


喜びをいただきます

その昔、私の問いに母は言いました。

子「お母さんがニワトリだったらさー。人間にイタダキマスって言われたら嬉しい?」

母「あー、そ、そうねー食べてもらえてありがとうって、、思うかなぁ」


自分から檻に入っていくニワトリが

自分を食べて。それが私の幸せ。

そんなふうには思っていないかもしれません。

しかし、生まれてからずっと

充実した豊かな場所で過ごしてきたそのニワトリはきっと

何があっても大丈夫という安心感、そして

今までの生に対する満足感。

そんな気持ちでいたのではないかと察することができました。


当時、私は田畑をしていたこともあり

すぐに自分の田畑の植物のことを思い出しました。

「あの子たちは幸せか」

と。

それからというもの、我が家のお米や野菜の品質が驚くほど良くなっていったように思います。

私の自然栽培が

植物福祉

というコンセプトをテーマに展開するきっかけになった

まるで衝撃的な体験でした。


クリスマスのあの夜。

私たちはそのニワトリが体験してきた感情や生き方

その全てを食べたのだ。

私はそう結論づけました。


あの幸せな体験の正体がわかった瞬間

食に対する価値観が変化し、また、これまでの自分の行いを反省したのでした。



イタダキマスからいただきますへ



イタダキマスという言葉のどこか空虚な

独りよがりのような、慰めのような響き。


それは食べる側と食べられる側の合意形成ができていないことにありました。


しかし、この喜びのニワトリはその問いに答えを与えてくれたように思います。


食べる側が食べられる側の幸せを考え生育環境を提供すること。

植物も動物も魚も。

食べるならとびっきり幸せにしてあげること。

それが

命は命を食べ命になる

という生命の原則が、悲観や偽善からほんの少し解き放たれることにつながる。

そのときに私たちは感謝の気持ちを伝えたい


イタダキマス

いや

いただきます

そして

ごちそうさま

と。


生命の選別が必要な栽培の現場においても

そんな観点で接してあげられたらきっと稲たちは応えてくれるように思います。

選別したからにはとびっきり幸せにしてあげよう!

そんなふう育てられたお米はきっと

みんなを幸せにしてくれる。

私はそう信じています。


ご覧いただきありがとうございます!

終わり


映像制作をはじめとした活動費に使わせていただきます。ありがとうございます!