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日記6日目 または明暗
人間1人1人と向き合った時に、そこにぱっきりした”悪”っていうものも存在しないし、ぱっきりした”善”っていうのも存在しないっていうのが、自分のそもそもの人に対するものの考え方でもある(中略)
高橋とか黛とかも決して悪ではないよね、人にはみんな理由があるよねっていうところに落ち着くと、それはそれでおもしろくないっていうのはあると思ってはいて。なので、このタイトルにはもうちょっと違う働き方をしてもらうように、最後のところはなっている
自分が思っていたことと一致していたので嬉しい。
ただ、ラストの「違う働き方」についてはまだわかっていない。
ところで、就職活動において、面接を重視すぎると、採用して業績が良くない人が多くなる可能性があるという。
同じ人でも、評価する人によって評価が変わるという問題があるという。
個人的には、面接によって、そもそも自分が同じ人でなくなるという問題を感じていた。
質問によっても違うし、同じ質問でも訊き方によって違う回答をしてきた。それは、その質問に対してその通りに答えようとしたからである。
就活の記事等では、何を訊きたいのかを考えて回答しようといわれるが、言葉を重視する自分にとっては、そちらを優先してしまう。
途中で終わったり、どこか不条理なものを残したりというのが、最近の映画にはなさ過ぎるのではないかと。自分が映画を見始めた頃は、そんな映画が多かった印象がありますし、本来もっとそういうふうに終わる映画を見たいと自分自身が思っています。
現代は語りすぎる。すべてを白日の下に晒そうとしている。晒すことができると思ってしまっている。
そうした思いがあって、最近は夜に明かりをつけないことが増えた。
あまり見えないくらいがちょうどいい。
何か明言できるときっていうのは、何か見ないようにしているものがあるんじゃないでしょうか。
他の人に自分が思っていることをわかりやすく伝えるには、筋道を立てて話をしなければならない。
その時には、捨象されたもの、捏造されたものが含まれてしまう感覚がある。
高校の世界史の先生が、史観について同じようなことを言っていた。
『何者』では、選ばれた言葉より選ばれなかった言葉が大事だと思うと、サワ先輩が言っていた。
今日も一時間以上電車に揺られてきた。
日差しが差し込む座席に座ってしまったので、本が照らされて読みづらかった。
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