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市川雛菜の「すき」および「きらい」について

※あくまでも私の解釈・記述であることを重々承知した上で、なお私がこの主張を取り下げる可能性を考慮し、共感から適度な距離を取り、画面から離れて見てください。
また、「すき」と「きらい」の間の関係については、一般的な「好き」「嫌い」と同様と仮定しています。


別に先に結論を言ってしまってもよいのだろう?

結論A
・一般的な「好き」「嫌い」とは別の概念である
・ある存在の行為に対する評価(一時的なもの)である
・「すき」は「その行為と市川雛菜が『しあわせ』を共有している」という状態を指し、「きらい」はその反対である

これは市川雛菜学会(約1名)の間で定説となっている理解です。なお、「しあわせ」について記述するともう一本できてしまうので、今のところは一般的な「幸せ」を拡張した程度の概念と理解しておいてください。

ここで結論Aの三つ目について書いておきましょう。
タイトル画像にもある(unknown)の

……今日のプロデューサー、きらい~~~

を例として出しましょう。これは、先ほどの結論Aを採用すると、「プロデューサーの、みんなにあわせて練習をするよう勧める発言」に対して放たれているということになります。
この「きらい」に至るまでの雛菜について、重要な発言は二つあります。
ひとつめは

――でもみんなはそうしてほしいかな?

でしょう。ここで「みんな」はノクチルのメンバーを指しますから、つまりしあわせを共有している相手です。またさらにその直後の発言を見ると、ここで「みんな」の望む雛菜の状態はしあわせであることと仮定されているようです。さらに、これは少々根拠不十分かもしれませんが、みんなの望む状態に雛菜があることは、みんなのしあわせと換言できるでしょう。
ゆえに
雛菜のしあわせ⇔他者(みんな)のしあわせ
と繋がります。これが「しあわせの共有」です。

さらに二つ目を出しましょう。

プロデューサーしてて、しあわせ?

先ほど述べたように、これは「しあわせの共有がなされているか?」という質問です。
ところが、雛菜はその後に

あ、やっぱりいい~~~ これ、聞きたくないやつだった~

と付け足しています。市川雛菜は、悪い結果を知るよりも、何も知らない方がしあわせと捉える傾向にありますから、ここで「聞きたくない」と言ったのは、つまりしあわせの共有がなされていないことを悟ったのでしょう。
ここで一つ付け足しておくべきなのは、しあわせの共有はとても難しいということです。むしろ、普通はなされないものです。さらに言えば、「雛菜といて幸せだ」と答えた人がいたとしても、それは必ずしもしあわせを共有しているとは限りません。
ですから、市川雛菜が「やっぱりいい~~~」と言ったのは自然なことなのです。

さて、このあたりのセリフの流れをいったん整理してみましょう。

雛菜 流れjpg

雛菜 流れ2

となっています(上の画像の見切れているセリフ箱は「あは~、雛菜もう行く~~~」からのセリフです)。
この流れをもう一度俯瞰すると、もちろん根拠十分とは言い難いのですが、最後の「きらい」は、しあわせの共有がなされていないという文脈で、かつ「(きらいと)言いたくない」は「聞きたくない」と並置されていることがわかります。このことから、「すき」「きらい」については、結論Aの三つ目の「しあわせの共有」という説を採用できると考えています。


では先ほどの結論を否定します

はい。実は先ほどの論には「存在」と「行為」についてはっきりとした分離が行われていないという欠点がありました。そこで、次のような結論Bを提唱します。

結論B
・一般的な「好き」「嫌い」とは別の概念である
・「すき」「きらい」はその存在に対する評価である(ただし、恒久的ではない。詳細は後述)
・「すき」は「その存在現在の市川雛菜が『しあわせ』を共有している」という状態を指し、「きらい」はその反対である

結論Aとの相違点を太線にしてみましたが、文字の上ではそれほど大きく変化しているわけではないことがわかります。
しかし、この結論Bには次のような前提が必要なのです。

自己同一性の否定

仰々しいタイトルですが、しかしやっていることは本当にこれなのです。

市川雛菜のwing優勝後のコミュなどを見るとご理解いただけると思うのですが、市川雛菜は自己同一性について独特の考えを持っています。それをさらに推し進めてみると、結論Bにちょうどよい前提が生まれるのです。
なお、以下は市川雛菜は自身の自己同一性と他者の自己同一性について同じような理解をしているものとして論を展開します。

さて、この否定については、次の一言で済みます。
「過去と現在と未来の自己は他者である」
繰り返しになりますが、これに近い自己同一性観を、市川雛菜は既にwing優勝後コミュで述べています。
また、もちろん過去の自己と現在の自己の関係は、現在の自己と現在の他者の関係と同じではありません。ここで先ほどの「しあわせの共有」を利用してみましょう。現在の自己は、ふつう過去の自己としあわせを共有しています。一方で、自己が他者としあわせを共有することはごくまれです。一般に、自己と自己の間の方が自己と他者の間よりもしあわせが共有されやすく、また自己と自己の間でも、より時間的に近い方がしあわせが共有されやすいと言えます。これはまさに自己同一性の代用材となり得るのです。

さらに、他者の同一性も否定することで、次のような理解が可能になります。すなわち、今日の他者は「きらい」であっても、明日の他者は「すき」であることも十分あり得るということです。これは結論Aの「行為に対する評価」という側面を言い換えたものになります。
市川雛菜の「明日は雛菜のすきなプロデューサーでいてね」のような発言からしても、結論Aのように純粋な行為に対して評価するととらえるよりも、このように同一性を否定して、存在に対する評価を一時的なものとしてしまう方が適切なのではないでしょうか。


プロデューサーはしあわせを共有できたか

さて、その後のtake the cake! で、雛菜はプロデューサーに「そんなに雛菜のこと、知ってるのか~」と言っています。これはしあわせを共有したと言ってもよいでしょう。
雛菜はしばしば「雛菜じゃないのに」と言っていることから、おそらく自己とのしあわせの共有と、他者とのしあわせの共有には大きな隔たりがあることを自覚していると思われます。その上で、「知っている」と言うのは、私としては、十二分にしあわせが共有されていると述べるべきかと思うのです。

しかしながら、しあわせの共有は恒久的なものではありません。時には樋口円香にさえ「きらい」(しあわせが共有できていない)と言う*のですから、せいぜい数か月の間柄では恒久的な共有など到底不可能でしょう。

しあわせを共有できなくなる瞬間は必ず訪れます。その時にプロデューサーに必要なのは、むしろ自身のしあわせを窮めることに他なりません。
自身のしあわせがアイドルを幸せにすることであるのならば、しあわせの共有は自然となされることでしょう。


*これについては、「きらい」と言うことでしあわせをより共有するという側面があるため、話は単純ではないと思われます。

「ちょっとくらいなら大変なこと、あってもいいよ」

これは、今まで市川雛菜の大転換であると言われてきました。しかし、学会でもたびたび異説が唱えられてきたように、この結論Bを採用すれば、これ自体はそこまで大きな変化ではないのです。

すなわち、現在の雛菜が「大変」(≒しあわせでない)であるとしても、未来の雛菜が強いしあわせを得られると見込まれることで、しあわせの共有によって、現在の雛菜もまたしあわせになるということなのです。

もとより、雛菜はつねに自分のしあわせに向かって走り続けています。それは今も全く変わりません。雛菜が何かを行ったとき、ぜひともまずは「それが雛菜自身のしあわせにつながっているのではないか?」と見てください。それを見抜く目が養われた先には、雛菜をあなたの望む道に導くこともできるようになるはずですから。


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