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〈わたし〉の小さな声で歌おう~榎本空『それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと』に寄せて

 この5月に刊行されたある本に触発され、その本にまつわる記事を作成しようと思い立ちました。その本の著者とは、以前、当ウェブで連載した企画「ブラックカルチャーを探して」に記事(「BLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動」)を寄稿してくださった榎本空さん。日本、台湾の大学で神学を専攻した後にアメリカの神学校に進学、さらにノースカロライナ大学の大学院に留学しました(現在は帰国し、沖縄に暮らしながら研究を続行中)。
 記事を掲載した2020年は、アメリカから始まったブラック・ライヴス・マター運動が世界に広がった年。大統領選挙やコロナ禍もあり、アメリカの混乱や苦悩を日本から見つめることも、それまでとは異なる切迫感がありました。そんなタイミングで出会った榎本さんのテキストは、宗教観に乏しい私にも刺さるまっすぐな言葉が並び、確かな力を秘めていました。
 そんなテキストを書く榎本さんの初の単著、期待しないはずはありません。真っ黒なカバーに浮かび上がるシンプルで強いタイトル。そしてその本には、現在の榎本さんをかたち作る経験や学び、前述したような知の道を歩むことになった経緯などが、青春譚といった趣でいきいきと綴られています。また、異国で暮らす日本人につきまとうであろう当事者性への向き合い方も、驚くほど率直に書かれています。
 今回、特別にこの本について、著述家としても活躍する、荻窪の書店、Titleの店主、辻山良雄さんに寄稿していただきました。まだ若く、これからより本格的な活躍が始まる榎本さんの、若い自叙伝ともいえそうな本書に、辻山さんが感じたものは? ぜひじっくりとお読みください。

                    (こまくさWeb 編集 内山)

本当の自分の声、意思はどこに?

 書店には毎月多くの出版社から、これから出る本の案内が届く。5月の岩波書店の刊行案内を見ていたとき、「黒人神学」というなじみのない言葉がまず目に留まった。黒人神学って何だろう? ゴスペルのようなものかしら? そしてその横には大きな文字で本のタイトルが記されていた。それは偶然にも、ここ数年わたしが自分や社会のことを考えたとき、あるこだわりを持って使っていた言葉と同じだった。

それで君の声はどこにあるんだ?

 扇情的な言葉がSNSにより拡散され、それがあたかも自分の言ったことであるかのようにふるまう人が増えた。多くの書店では、個人が自分を育てるための本は奥にひっそりと並べられ、大きな声で人をあおる本ほど店のよい場所に積まれている。
 それはほんとうにあなたが読みたい本ですか?
 余計なお世話だが、そのように問いかけたくなる瞬間があるのだ。
 そうした問題意識もあり、わたしにはこの本がある切実さをもって書かれたものであることがすぐに伝わってきた。実際に読んでみるとその切実さは予想以上で、この社会を生きる中で何らかの不誠実に直面した人、それでも自分の道を求めることをあきらめない人にとっては誰にでも、肌の色や国籍を超えて響く本だと思った。

アメリカで黒人神学を学ぶ日本人の若者の物語


 著者の榎本空さんは同志社大学神学部の修士課程を修了したあと、台湾の長栄大学、アメリカ西海岸の神学校を転々とし、その後「黒人解放の神学」を打ち立てたジェイムズ・H・コーンに学ぶため、ニューヨークのマンハッタンにあるユニオン神学校の門を叩いた。
 しかしなぜ日本人の若者が、アメリカで黒人の神学を学ばなければならなかったのだろう。
 それはこの本を手に取った、多くの人が持つ疑問だと思う。
 詳しくは本書を読んでいただきたいが、いまの社会には、既存の神学では追いつかない苦しみが存在するのであり、両者の隔たりを見るにつけても、彼の魂がアカデミックな学問で満たされることはなかったのかもしれない。

仲間が路上で闘っている中、静かな守られた教室で白人の神学について講じているだけでいいのだろうか。神学とは、言葉とは、無力なのか。大学院はコーンに学位を与えたが、言葉は備えさせなかったのだ。(P.6)

もっとも私の関心は、二〇〇〇年前のイエスが今に対していかに関わっているのか、というよくいえばキリスト者としての生きかたの問題であり、悪くいえば何とも漠然としていて頭でっかちな問いであったから、同時代的な苦しみに無関心を装いつつ、普遍的な真理を目ざすことが神学という学問だと教えられたとき、言いようのない冷酷さを覚えたのだった。(P.10)

『それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと』榎本空著(岩波書店)より
※引用部分以下同


 神が苦しんでいる人びとを自由にするというのなら、なぜいまだに、人種や性別、障害の有無による差別はなくならず、貧富の差はますます増大しているのだろう。その矛盾は、最初の奴隷がヴァージニアのジェイムズタウンに運ばれてきた1619年以降、400年にわたり虐げられてきたアメリカの黒人にこそもっともはっきりと現れる。そして榎本さんが師事したジェイムズ・H・コーンこそが、教会で語られる白いキリスト像に疑問を持ち、黒人が黒人として自らの存在を受け入れる、あたらしい黒人神学を目指した人物だった。
 彼はマーティン・ルーサー・キング牧師、マルコムXに連なるものとして自らを捉えており、黒人であるということが、彼らが舐めてきた艱難辛苦により、「社会にあって小さくされる」キリスト者と同じ基盤を持つことを直感していた。
 イエスは黒人なのである!
 その発想の転換と、自らのブラックネスへの肯定が、のちのブラック・ライヴズ・マター運動へと繋がっていく大きなうねりとなるのは、本書の読みどころのひとつだろう。
 ひとりの人間としてのコーンは、教師としての情の深さと温かみ、そして説教者としての饒舌とを兼ね備えた魅力的な人物であったという。自らの生きる実感を求めさまよっていた榎本さんが、そうしたコーンに引きつけられたのは必然であったのかもしれない。

苦しみを愛に変換し続けてきた人びとを思い、自らを顧みる

アメリカの黒人は、四〇〇年間、暴力に晒される中で、独特な霊性を培ってきた。黒人は、テロ集団を組織してもおかしくなかった。……しかし私たちが創り出したのは、クー・クラックス・クランではなく、宗教であり、音楽であり、文学なのだ。それが精神の度量というものだ。(P.65)

 これはコーンの同僚であり、榎本さんが通っていた当時のユニオン神学校で最も人気のある教授の一人であった、コーネル・ウェスト(*1)の言葉だ。また彼はこのようにも語っている。

「四〇〇年にわたって憎しみを受け続け、それでもなお世界に向かって、愛を、愛し方をこれほどまでに教えた人びとの伝統」。この伝統にしっかりとつながりなさい。(P.67)

 ジェイムズ・ブラウン、レイ・チャールズ、ジョン・コルトレーン、トニ・モリスン……。偉大な黒人の芸術家たちは、憎しみを受け続けながらも、事を暴力で解決するのではなく、その人たちを愛することの方を選んだ。それは信仰が目指す深き愛を、実際の行動で示した、ほんとうに恐るべきことだと言える。
 しかし「その伝統にしっかりとつながりなさい」と言われても、黒人でもなければアメリカ人でもない者に、はたしてそのようなことが可能なのだろうか。
 あるゼミの最中、コーンは榎本さんに、このように釘をさしたという。
黒人以外の人間が、黒人の背負ってきた苦しみや痛みを理解するのは難しい」(P.103)
 これは社会に何か大きな事件が起きたとき、多くの人が抱えるであろう、
うしろめたさ、、、、、に似た感覚だと思う。自らが安全な場所に立っていることを自覚しているわたしたちは、そこからどのようにふるまえばよいのだろうか。
 例えばいわれもなくロシアに攻め込まれた、ウクライナの人びとに対して。
 また、地震のあと突然大津波に襲われ、住むところもすべて失った東北の被災者に対しても。
 彼らのために募金することはできても、そうでなかった者が彼らと立場を同じにできるという訳ではなく、そこには明確な境界線が存在するのだ。
 わたしたちは物分かりのよいやさしさで、その境界線を固定することにどこか加担してはいないだろうか。そう、スーザン・ソンタグが書いたように、「彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在する」(『他者の苦痛へのまなざし』P.102)のだから(『他者の苦痛へのまなざし』*2)。我々はその“特権”に対し、常に意識的でなければならない。

そしてもちろん榎本さんも、自らの立場に関しては充分に意識的である。

それならば、私は誰なのだろう。沖縄でも、台湾でも、ニューヨークでも、そんな問いが最後までつきまとう。無色透明な中立者にもなれず、彼らの中の一人ともなれず、むしろ、彼らを使い捨て可能な命に貶めてきた構造に埋め込まれ、その特権を享受してきた私。(P.111)

 自分が彼らとは違うと思い知らされたとき、榎本さんには自らの声が聞こえてくるようになったのかもしれない。コーンは教壇の上に立ち、事あるごとに「自分の声を見つけなさい」と教えたというが、自分の声を見つけるとは、「自分は何の後を生きているのか」を見極め、その歴史を引き受けるという態度でもある。そのように自らに根差したものを問い直したとき、榎本さんの目の前には、これからの人生を賭けてするべき仕事が広がっていった……。

 〈わたし〉の声とは、一体どこにあるのだろう。この世界でまじめに生きようとするものならば、一度はぶつかる問いであろうが、いまの騒がしい世のなかでは、その声すら聞きとりにくくなっているのかもしれない。
 しかし〈個〉であるからこそ我々は、ほかの〈個〉とつながることができる。大きな声の後ろに隠れるのではなく、それぞれの個人が自信をもって、自らの小さな声で歌える未来であってほしい。
 そして本書こそが、その勇気を与えてくれる一冊なのである。


*1 コーネル・ウェスト:アメリカの哲学者、政治思想家で、現在はプリンストン大学およびユニオン神学校の教授。政治や経済、歴史や宗教学の側面から人種問題を論じる先鋭的な知識人である。『人種の問題――アメリカ民主主義の危機と再生』や『コーネル・ウェストが語るブラック・アメリカ: 現代を照らし出す6つの魂』などの著書がある。
*2 『他者の苦痛へのまなざし』アメリカの作家・批評家のスーザン・ソンタグ(1933年~2004年)の著書(北條文緒訳 みすず書房 2003年)。戦争とそれを伝える写真などのメディアについての論考をまとめたもの。

文:辻山良雄

著者プロフィール
辻山良雄
(つじやま・よしお)兵庫県神戸市生まれ。㈱リブロを退社後、2016年1月10日、荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店Titleをオープン。新聞や雑誌などでの書評、カフェや美術館のブックセレクションも手掛ける。著書に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

『それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと』(榎本空著 岩波書店 2022年)


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