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命拾いの本質

守護霊的存在が警告してくれたので助かった、とか、ある偶然のせいで助かった、といような話は、それを見聞きした周囲の人の、羨ましいです、とか、ご先祖の徳で守られているんですね、という大合唱とセットであることが多い。
でも、それはどうなんだろうと思う派。

みんな、自分の凄まじい運の良さを棚に上げて、かろうじて地獄に仏状態で生きている人の慎ましいラッキーを持ち上げるなんて、ある意味、悪趣味、嫌味。

内臓が健康である人が、内臓の存在をいちいち認知しないように、ほとんどの人には、先祖からの警告も、偶然重なるラッキーも不要だ。
つまり、生きているだけで、当たり前にラッキーなのである。
警告が聞こえないのは、警告が全く不要だからだ。
偶然が重ならないのも、わざわざ偶然を重ねないと命拾いできないような人生じゃないからだ。

もっと、自分の人生に満足すればいいのに、と思う。
そんなことに、結構、真剣に羨望している人が多い感じがして、残念だ。
ということで、自分に対する戒めとしても書きておいた。

だって私は、幽霊が見たい••••

終わり

現在、「自分事典」を作成中です。生きるのに役立つ本にしたいと思っています。サポートはそのための費用に充てたいと思います。よろしくお願いいたします。