人は、異なる色彩を放つ、多面体の鉱石のようなもの。
働く人としてのわたし、
さまざまなコミュニティにおけるわたし
孫・子としてのわたし、嫁としてのわたし、
母親、妻としてのわたし、
そして、個としてのわたし。
わたしが持つ顔。
どれも紛れもない自分。
そのときに、やりたいこと、
私だからできること、やるべきこと、
一定ではなく、その比率は変動する。
その変動やゆらぎが、自分らしさ
のような気もする。
自分のアウトプットしたことを眺めてみると、
自分の思考が、いまどこを向いているのか、
その濃淡もよく分かる。
Twitterは、わたしの内側に揺蕩う雑多な
あれやこれや、並んだnoteの記事は、
私の思考のアーカイブ、私の脳内そのものだ。
いまは圧倒的に、これからの観光のことばかり
考えている。これからどうなる?、
わたしはそれに対して何ができる?
だから、働く人としてのわたしが
色濃く現れている。
それは、私の天命だから当然といえば、
当然だけれど、コロナのおかげで、
いつも以上に、そのことはわたしの中を占有している。
その中でもさらに、自分が関わることで、
何かが変わる、生まれる、動き出す、
そういう前向きなことやひとにしか注力したくない、というかできない。
相手の時間も、わたしの時間も有限だから。
それくらい、いまストイックになっている。
当然、「それ以外」のことが入り込む余地は、
いまはない。
そんなわたしと、
「それ以外」のところで重なっていた人からしたら、最近こっちで見ないね、どうしたんだろうね、と、なるだろう。
でも、わたしは確実に存在してるし、
ただ、その人の目に映らない、映らなくなった、
ただそれだけ、のことだ。
わたしが見ている、あの人のあの顔も、
きっと、ほんの一面に過ぎないのだ。
だから、そのことに一喜一憂しなくていい。
わたしに対しても。
いまはそこにいないだけ。
人との縁やつながりは、
太くなったり、細くなったり、
長くなったり、短くなったり、
濃くなったり、薄くなったり。
そして、新しくつながったり、
ぷつんと切れたり、
知らないうちに消えて無くなったり、
消えたと思ってたら、つながっていたり。
そんなものだ、とても不確かで曖昧なものだ。
とくに、ひとつの面しか知らない間柄は
強くもあり、脆くもある。
かといって、重なる面が多いからといって
強いとも言えない。
ひとは、見方や光の当て方によって、次々と異なる色彩を放つ、多面体の鉱石みたいなものだ。
結局、知ってても、知らなくても、
見たことがあっても、なくても、
誰もが、多様な面を待ち合わせている、
ということを、温もりとともにその背景まで、
互いに想像できるかどうか、なのだと思う。