人間味

僕は人間味が少ないと思う。
「人間らしさ」「人間としての情緒」に乏しいと、周りに言われたこともあるくらいだ。

そのせいか、僕は人間味のある人に関心がある。
自分に無いものを持っている人に惹かれるのだろう。

しかし、「好き」ではなく、あくまでも「関心がある」。
なぜなら、人間味は必ずしも良い方向に作用するわけではないからだ。
人情や思いやりがあることが人間味ならば、
後ろめたいことを隠したり、自分の感情に支配されることも、また人間味なのだ。


僕はどうしても、人間味をこのように考えてしまう。

「理性に囚われない、本能の赴くままの行動」
ホッブズが唱えた「自然状態」さながらの人間味は、
果たして同じ人間達に受け入れてもらえるものなのだろうか。

「人間味」は、「人間」の「味」を指し示す言葉となっているが、
本当は「自我」の「味」なのではないかと思う。
「人間はこのような本能を持ち合わせている」という定義ではなく、
「私の自我はこうである」という叫びなのではないだろうか。

そう思うと、やはり僕は「人間味」のある人に関心がある。
「人間味」が溢れる瞬間、そこには彼の自我が垣間見える。
そこには表面的な彼ではなく、自己同一的な彼が存在する。
理性や理想や世間体の仮面を被っていない、本能の彼がそこにいる。


誰かに受け入れてもらうためではなく、本能の赴くままに彼は叫んでいるのだ。

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