「成功」の妄信と「失敗」の逓減

最近ふと思ったことの吐き出し。
忘れないためのメモ書きなのでオチも結論も整った文体もないのでご容赦。

世間の声、というにはあまりにも主語が大きくなってしまうのだが、
「自分から見えている世間の声」は、昔と今ではだいぶ変わってきた。
非難、炎上、誹謗中傷…
昔よりも増えてきたように感じる。
昔とは違い、情報を能動的に選択して得るのではなく、受動的かつ無意識に流れてきてしまうから、目につきやすくなっただけだろうか。
時代は流れているのだから変わることは当然かもしれない。
しかし、それが良いことなのかと言われると難しい。

仮に、変わっていたとする。
なぜ変わったのか。
その原因の一つは「メディアの受け取り方の変遷」なのではないだろうか。

昔は、「成功」と「失敗」が混在していた。
「このような人になりたい」
「このような人にはならないように」
そんなメッセージがあったように思う。

昨今のメディアを見ると、前者が多数を占めているように感じる。
失敗を発信することは、非難、炎上、誹謗中傷に繋がる。
反面教師とするのではなく、「なぜ失敗を発信するのか」となってしまう。
結果、「成功」を発信するメディアが増えてしまったのではないだろうか。

仮に「失敗」が、「成功」に近づくための意図された「失敗」だったとしても、
「最初から成功に導いてくれよ」
と言う声が聞こえる気がする。
少しでも能動的に動けば、もしくは動かずとも欲しい情報の欲しい部分だけを知ることができる現代において、
「失敗」とは遠回りであり、不要な情報に成り下がってしまったのだろうか。

少し話は逸れるが、平等や公平、多様性が訴えられる一方で、「失敗」が非難されるシーンをよく見かける。
いろんな考えや価値観があるはずなのに、周りから逸脱された「それ」を「失敗」として非難してしまう人を散見する。
誰にだって失敗はあるはずなのに。
自分がもし失敗した時に、自分がしたことが自分に返ってくるとどうして思わないのだろうか。

一つ考えられる理由がある。
それは、「失敗を叩く」という「成功」があるからだ。
メディアの多数が「成功」になるということは、
極論、その多数が「見習うべきもの」と認識されるということだ。
「〇〇は成功している人だから、〇〇は正しい」
「〇〇は正しいのだから、何を言っていても〇〇の言うことは正しい」
「正しい〇〇が失敗を叩いているのだから、失敗を責めることは正しい」
「失敗を叩くということが、成功に繋がる」

失敗から学ばなくなった彼らは、「成功」の中に潜む「失敗」を疑わない。
疑わない彼らはその肥大化した正義感で「成功」を妄信し、悪に見えた「失敗」を叩く。

長すぎますね。
ここまで読んでくれた人ありがとうございます。もう終わります。

最後に自分の考えを述べたい。
私は今回のことを負のスパイラルと考えており、いつかどこかで大きい爆発が起きるのではないかと危惧している。

因果性のジレンマではあるが、
①「失敗」を受け入れなくなっていく大衆の存在
②受け入れられない「失敗」を発信しなくなっていくメディア
③「失敗」による学びの減少と非難
①〜③が負のスパイラルとなってしまうのではないか。
そしていつか、大きな何かの形で大きな問題が起こってしまうのではないか。


もしかすると、私は明るい未来のためには、大きな爆発が必要だと考えているのかもしれない。
心の奥底で「起こって欲しい」と願っているのかもしれない。
負のスパイラルが止まり、自分たちの行動を振り返り、誹謗中傷や人格否定が無いような世界を。
そのための犠牲を。
痛い目を見て、ことの重大さに気づいてはもらえないだろうか、と。

結局のところ、私も浅はかなで楽観的で短絡的な人間なのだ。
ここでいう大きな爆発なんて、ここ数年間でいくつも起きているのに「もしかしたら次は、いつかは良くなる」と思ってしまっているからだ。
自分も含めた様々な傷ついてきた人がいたとしても、そう思ってしまう当事者意識の低さが窺える。
大衆なんて言葉を使ったとて、私もその大衆の一人なのだ。

だからせめて、その一人として「成功」に妄信せず、「失敗」から学ぶことを忘れずに生きていこうと思う。
その証として、このnoteを残しておきたい。

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