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涙パレット|1/4

 高校の卒業式で泣けなかったことが西条結希には心残りだった。彼女は大学生になる。無数の夕焼けの絵が飾られたカフェ「パレット」でバイトを始めた彼女は裸足の風変わりな店主、海老名と出会う。店には秘密があった。さまざまな理由で涙を忘れた客が店を訪れる。海老名は客の涙を絵の具に混ぜ、絵を描く。それは客の心を癒やし、涙を思い出させる不思議な力があった。西条はここで働いていれば涙を取り戻せると考えた。客の涙をとり、絵を宅配する仕事を引き受ける。

あらすじ

 泣けません。
 紅白幕に彩られた体育館で、同級生たちはパイプ椅子をきしませながら、ときおり鼻をすすっていました。
 通い慣れた通学路を自転車で駆けることも、仲良しのミカとクラス替えで一緒になれるか心配することも、体育祭で自分の組のバトンが落ちないように祈ることも、文化祭の催しに使うダンボールの束が持ち上がらずに男子の手を借りることも、もうないと思えば私はきっと泣いてしまうにちがいないと思い込んでいました。
 もちろん、誰もがみんな卒業式で涙するべきだと考えてはいません。ただ、私は今日この日に泣いてしまう自分の姿しか想像していませんでした。
 校長から授かった卒業証書には、たしかに西条結希と私の名が書かれています。
 でも、どうしても泣けませんでした。
 チャイムが響く教室で黒板に落書きをしたり、お世話になった先生たちにお礼を言いに行ったり、誰かが誰かに告白したり、されたり、明るい子たちが最後の制服姿をショート動画アプリにアップロードしたりしているうちに、今日の終わりを告げる夕焼けが、さびしい茜色で私たちを包み込みます。
 何度も繰り返し親友のミカと「またね」と言いあって別れたあと、ひとり通学路を歩く私の瞳は、しかしカラカラにきれいさっぱり乾いていたのですよ。

 桜も散った四月の土曜、大学のある朝風町へ越してきた私が、そうして流せなかった涙について思いをはせていたのは、きっと窓が夜雨に濡れていたからでしょう。
 「パレット」は私が借りた五畳半のアパートから歩いて四分ほどのところにあるカフェ兼アンティークショップです。
 古い洋館のような四階建ての店舗で、SNSで調べたところによれば、地下一階から三階まで十九世紀末から二十世紀半ばにかけての英国を中心とする欧州の家具が並んでいるようでした。オーク材のドレッサー、真鍮の取っ手がついたドロワーズチェスト、三灯のキャンドルスタンドなど、数えきれません。
 二階まで吹き抜けとなっており、壁という壁に、何百枚という絵画が掛けられていました。すべての絵に描かれている夕焼け空のほうこそ、卒業の日を思い返す呼び水となっていたのかもしれません。
 カフェは二階に併設されており、私は窓際の席で待ちくたびれていました。営業が終わる夜七時から、もう四十分もぼんやりとしています。私ひとりではとても抱えられないほど大きな夕景の絵画が壁に掛けられていました。となりには、下手な字で「アルバイト募集・時給千四百円」と書かれた求人広告が貼られています。もしも、この張り紙がなかったとしたら、私はとうに帰っていたことでしょう。
 大学で山ほど渡された学生サークルのチラシを私は鞄から出しました。「己事究明・自分を知ろう」と、いかつい筆文字で書かれた禅サークルの勧誘文句を熟読するくらい暇をもて余していたときです。ようやく上階から内階段を下りてくる音がしました。
 現れたのは、モジャモジャした髪型の黒縁メガネを掛けた壮年の男性でした。痩身にまとっているアロハシャツは周りのヨーロッパの家具からは浮いて見えます。足もとに目をやると、裸足でした。
「不採用で」
 開口一番、彼は言い放ちました。
 ふいの言葉に頭がついていきません。聞き返した私に、男はカラカラと笑いながら繰り返しました。「不採用で」
 不採用で? 少しのあいだ、私は口を開けていた気がします。
 一時間近く遅れてきて、面接はおろか名乗りもしないまま、不採用ですって?
 殴ってもよろしいでしょうか? そのような乱暴な言葉を、初対面の方に危うく投げかけそうになりました。
 笑顔のまま彼は私の向かいの席に腰を下ろします。おもむろに胸ポケットから缶を取り出しました。蓋を開け、彼の手のひらに転がったのはドロップスです。
「舐める? ハッカ味、嫌いなんだよな」と舐めたことを仰るものですから、私は飴玉を奪いとり、彼をにらみながら口に含みました。
 再び缶を振ると、どうやら好きな味を引き当てたらしく、無邪気に喜びながら彼は飴を舐めます。思い描いていたカフェ・パレットの店主とは、かけ離れた振る舞いでした。
「じゃあ、採用で。お嬢ちゃん、コーヒー飲める?」
 ハッカ飴を吹き出しそうになりました。窓外の夜雨が強まった気がします。
「無理です」と私は彼の黒縁メガネの奥を見据えました。
「コーヒーが?」
「いえ、採用が」
 さも意外だという表情をたたえている彼の顔へ、ほんとうにパンチをお見舞いしても許される気がしましたが、もう大学生なので我慢です。
「大人なら謝っていただけますか? 不採用と言ったことも。遅れたことも」
「ごめんな」と、こともなげに彼は飴でほっぺたを膨らませます。いらだたしいですね。
「そのうえ、手のひらを返したように採用? どういうことです?」
「ハッカ味」と彼は胸ポケットに収まっている缶を、ひとさし指でコツコツと叩きます。「食べてくれたじゃん」
 ああ、真面目に話していても仕方がないかもしれないと私は顔をそらしました。壁に貼られた求人チラシには、たいへん下手な字で「アルバイト募集・時給千四百円」と書かれています。この人が書いたにちがいありません。「もういいです。採用で。コーヒー、いただきます」と私は吐き捨てます。遠く雷鳴が聞こえました。
 しかし、次に彼が言い放った言葉を聞いて、やはりしっかりと殴っておくべきだったかもしれないと後悔することになりました。
「ただし、条件がある」

 カフェ・パレットのアンティークショップ店員として働きはじめて、三週間ほど経ったころでしょうか。
 時給は良く、さほど忙しくもない仕事に文句はありませんでしたが、私にはどうも気にかかることがありました。
 パレットは、カフェもアンティークショップも営業は午後七時までです。一時間ほどで店じまいを済ませ、いつも午後八時までには海老名さんもひたひた裸足で帰ります。
 ところが、たまに夜の八時を過ぎても四階に籠もったまま姿を現さないことがあるのです。あのような方でも店主ですから、経理などやることもあるのでしょうが、問題はどうやらお客さんを四階に招き入れているらしい点にあります。
 わざわざ営業時間を過ぎてから、何をすることがあるというのでしょうか? 私は四階に足を踏み入れたことがないので、何につかわれているフロアなのかも知りません。
 なにより引っかかるのは、海老名さんが私を採用したときに示した「条件」です。
「秘密を守ること」
 人を食ったような言いぶりに、私は苛立ちをおぼえるとともに、好奇心を抱きました。
 初めはパレットに何か企業秘密でもあるのかと考えていましたが、「条件」と営業後の気になる動きを考えあわせれば、こう考えるのがしぜんでしょう。海老名さんはお客さんとカフェの四階で、夜な夜な人には言えない何かをしていると。
 ピーコックグリーンのハンカチを店内で拾ったのは、そうした疑いを抱いていたさなかでした。欧州各国の古い旅行パンフレットを並べている棚の近くに落ちていたので、閉店まぎわに旧西ドイツの古地図を買っていった女性のお客さんのものでしょう。ふしぎと、どこかで見おぼえのあるお顔でした。
 店が閉まるまでに彼女が店を出た姿を私は見ていません。またか、と思いました。無数の夕焼けの絵画といっしょに壁に掛けられている、まだ現役の古時計を見ると七時五十分です。私は香水が甘く香るハンカチを手に、階段を上りました。
 四階にたどりつくと、私の入ったことのない部屋へとつづく扉が、半分開いています。覗くつもりはありませんでしたが、扉に近づいたときに私は見てしまいました。
 部屋はアトリエのようでした。絵筆や絵の具やスケッチブック、イーゼルやキャンバスなどが散らかっています。そのなかで、海老名さんと先ほどのお客さんが、丸椅子に向き合って座っていました。
 二人は見つめあったまま動きません。
 大きな窓から差す月の光に、海老名さんの左手の薬指の指輪が青く輝きます。
 彼女のハンカチは、ベルガモットの香りがしました。

「さて、秘密は守ってもらおうか」
 海老名さんはピーコックグリーンのハンカチの持ち主を見送ると、タバコでも吸うようにドロップスを一粒口に含み、言いました。
 私は頷きます。「良い子だ」と海老名さんも頷いて、私たちは夕焼けの絵画たちを眺めながら、パレットの二階のカフェへ場所を移しました。テーブルを挟んで、クイーンアンチェアに座ります。
「でも、秘密にすることですか?」と私は海老名さんの淹れたディカフェを口にします。
「人は自分のことさえ知らないのに、他人のことを知った気になりたがるからな」と海老名さんは飴を口に残したままコーヒーをすすりました。
 あのとき、先ほどのお客さんは海老名さんを見つめたまま泣いていました。
 頬を伝う涙は月影を宿して、海老名さんが添えた小さな橙色のインクボトルに吸い込まれました。
 海老名さんはそのガラス瓶から木製のパレットに涙を落としました。絵の具にも月明かりが灯ったように見えました。涙入りの絵の具を筆にとり、彼はキャンバスに絵を描きはじめました。
 海老名さんと違って裸足ではない私が靴音を鳴らしてしまうまで、そうして彼は絵筆を走らせつづけていたのです。
「まばたきせずにいれば、誰でもかってに涙は流れるからな」と海老名さんはカフェの壁に掛けてある、ひときわ大きな夕日の絵画を眺めます。涙を流すためにお客さんが目を開けていたようすを、二人が見つめ合っていると私は誤解したのでしょう。
 しかし、まだ分からないことばかりです。どうしてそこまでして、お客さんは海老名さんに涙を渡したのでしょうか? 海老名さんは絵を描いてどうするつもりでしょうか? そもそも、なぜ絵の具に涙を落とす必要があったのでしょうか? 
 やつぎばやに尋ねると、海老名さんは私に右の手のひらを広げて見せました。とても大人が記したとは思えない下手っぴな字で、住所が書かれています。
「一週間後、ここへ行けば分かるさ」

 城かしらと思うほど大きなお宅でした。
 朝風町の家賃相場はかなり高く、五畳半の1Rの家賃にも苦しんでいる私としては、いくら払えば同じ街でこのような大豪邸に住めるものか考えずにはいられません。
 カフェ・パレットからインテリアショップが立ち並ぶ朝風町通り沿いに五分ほど歩きます。下り坂がつづいていました。「朝」の字がつく街にありますが、「夕坂」という名がついています。古い建物をリノベーションしたデザインホテルが遠くに見えてくるころに路を右に折れ、日に透けた葉桜の新緑を横目に高級住宅街をしばらく歩いたところにそびえたっているのが、吹野さんのおうちです。
 私は薄いダンボール箱を脇に抱えていました。横幅は、背伸びをした二匹の猫を縦に並べたくらいの長さです。そう重くはないはずですが、私は力がないので二の腕が筋肉痛になりかけていました。
 おそるおそる呼び鈴を鳴らしました。黒いシェードのウォールランプに照らされたインターホンの子機のカメラに、私は見つめられている気がしました。
「はい」と女性の声がします。
「カフェ・パレットの者です。お品物をお渡しに伺いました」

 ピーコックグリーンのあのハンカチを拾ってくれたお礼にと、吹野さんは私をご自宅に上げてくれました。
 私が背伸びをして寝転んだとしても余りある、しっとりとした布地のソファで背筋を伸ばして待っていると、吹野さんはブルーオニオンの柄のティーカップにアールグレイを淹れてくれました。吹き抜けの天井からスポットライトで照らされた紅茶は、私がこれまで飲んだどの紅茶よりも香り高く感じられます。
「こちらです」と私はいたたまれなくなって本題を切り出しました。ダンボール箱を吹野さんに手渡します。
 中から出てきたのは絵画でした。あの日から一週間かけて海老名さんが描きあげたものです。私は海老名さんの手のひらにひどい字でメモされていた住所へ、歩いて絵画の宅配に上がったというわけでした。
 吹野さんは静かに絵画をじっと見つめています。レースカーテンから透き通った五月の温かい日が吹野さんの手もとを照らしていました。
 絵には小さな舞台で何かを演じているらしい子どもたちの姿が描かれています。何の絵でしょうか? そう私が尋ねるまえに、吹野さんの左目からひとすじの涙が流れます。
「あらあら、ごめんね」と吹野さんは笑いました。彼女のハンカチのようにベルガモットの香りはしないので申しわけなく思いながら、私はハンカチをお貸しします。
「ありがとう。この絵はね」と彼女は涙が止まらないのがふしぎなほど晴れやかな口調で教えてくれました。
 親しい友人からカフェ・パレットの噂を聞いたこと。話によればカフェの店主に涙を渡せば絵を描いてくれること。その絵を見れば再び涙を取り戻せること。
「不思議ね。あの方には何も話していないのに。この絵の真ん中の子。これ、私よ。小学六年生の学芸会の舞台で『くじらぐも』の先生の役を演じていたときの」
 聞けば、吹野さんは役者を仕事にされており、十六歳で初めて舞台の主役を演じてから今日までの十四年間、ドラマや劇場などで活躍されているそうです。テレビや映画をまったく観ない私でも、どこかで見たことがあるお顔だと感じたので、とても有名な方なのでしょう。
「でも、舞台のうえでしか涙を流せなくなって。ずっと誰かを演じている気がしてね。このままだと自分を忘れてしまうかもしれないと思って、彼を訪ねたの。よかった」
 貸したハンカチで遠慮なく鼻をかまれましたが、私は気にしません。
 千四百円の時給に釣られて始めたアルバイトでしたが、私のなかで働く理由がひとつ増えました。いえ、むしろそのために、これからもカフェ・パレットでバイトをつづけようと決めました。
 高校の卒業式で、どうしても流せなかった涙を取り戻すのです。
 吹野さんの安らかな涙を見ていると、パレットで働いていれば、いずれ機会は訪れるように思われました。
「一週間後、ここへ行けば分かるさ」
 そう言っていた海老名さんの真意が、ようやく私にも分かった気がしました。





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