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大阪中之島美術館「没後50年 福田平八郎」展~展覧会#57~


モネ展の影で

毛馬で淀川から別れた大川は、蛇行しながら桜宮から通り抜けで有名な造幣局のそばを流れ、大阪城を左に見て中之島で左右に分かれる。右側を流れる大川はやがて堂島川と名前が変わり、左側の流れは土佐堀川となる。
大阪駅から堂島地下街を通って地上に出て、堂島川に架かる渡辺橋を渡ると、双子のようなフェスティバルタワーが道路を挟んでそびえている。

ここから次の田蓑橋まで、堂島川沿いの遊歩道を歩くのが好きだ。右手に川の流れ、左手に古いファサードを再現したダイビルなどの高層ビルが建つ。花と緑で覆われた美しい広場は中之島四季の丘だ。桜はほぼ終わりに近く、木々の緑が濃く感じられる。その向かいに大きな黒いキューブ型の建物がある。目指す大阪中之島美術館だ。


館内に入り、チケット売り場を目指す。10時開館だからと甘く考えていたが、チケット売り場はすでに列ができていた。前評判では、同時開催中の「モネ展」目当ての人が多いということなので、それを信じたい。

4階から見下ろしたチケット売り場

5階モネ展会場入口


福田平八郎展会場

4階の会場まで長いエスカレーターで上がる。モネ展の会場はもう1階上の5階である。予想通り、かなりの人がエレベーターを乗り継いで階上に向かう。福田平八郎展はゆったり鑑賞できそうだ。

福田平八郎展会場入口

本展は、福田平八郎(1892~1974年)没後50年を記念する展覧会で、大阪の美術館では初となる回顧展である。初期から晩年までの作品約120点を、ほぼ時系列に展示している。
構成は次の通り。

第1章 手探りの時代
第2章 写実の探究
第3章 鮮やかな転換
第4章 新たな造形表現への挑戦
第5章 自由で豊かな美の世界へ

それでは第1章から福田平八郎の作品を観ていきます。
なお、作品展示は前後期に分かれていて、私が行ったのは後期でした。


第1章 手探りの時代

〈1918年頃まで〉
旧制大分中学校に通っていた平八郎は、数学が苦手で留年が決まってしまう。そこで明治43年(1910)、画家の道を志して京都に出て、京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校などで学ぶことになった。
展示No.1は「野薔薇」という作品だった。この部屋の作品はすべて撮影不可だったので写真はないが、大正2年(1913)京都市立美術工芸学校時代の制作である。素人目ながら、その完成度の高さに驚かされる。
しかしこの第1章の、京都市立絵画専門学校を卒業する大正7年(1918)までの作品を眺めていると、突出した才能を認めつつ、彼が進むべき道を模索していることに気がつく。その方向性が定まるのが、次の時代であった。


第2章 写実の探究

〈1928年頃まで〉
自分の絵の方向性に悩んだ平八郎は、美学の教授・中井宗太郎に相談する。中井は「自然に直面して、土田麦僊君の如く主観的に進むか、榊原紫峰君のように客観的に進むかであるが、君は客観的にみつめてゆくほうがよくはないか」と忠告したという。以後平八郎は、対象を細部まで観察し、徹底した写実表現を試みた作品を発表していった。
会場に多数展示されている「写生帖」は、「写実の探究」の賜物だった。

安石榴ざくろ〉 大正9年(1920)

〈朝顔〉 大正15年(1926)


第3章 鮮やかな転換

〈1944年頃まで〉
この章では、まさに画風の「鮮やかな転換」を見ることができる。最初に展示されているのは、あの《漣》だった。昭和7年(1932)の第13回帝展に発表したものである。この作品は現在重要文化財に指定されていて、大阪中之島美術館が所蔵している。
平八郎は、昭和のはじめころから、形態を単純化し、鮮烈な色彩と大胆な画面構成を特徴とする独自の装飾的表現へと向かう。

〈漣〉 昭和7年(1932) 4/9~4/23は作品保護のため展示休止(この写真は複製)


それにしても、この画風の変容ぶりには驚く。しかしこの《漣》でさえも、福田平八郎にとっては「写実」以外のなにものでもないのだろう。
おおげさかもしれないが、この瞬間から、近代の日本画がスタートしたと言えるかもしれない。

この時期、竹の絵をいっぱい描いている。もちろん徹底した写生のうえで、一本一本の変化を楽しんでいるようだ。

〈竹〉 昭和17年(1942) 展覧会リーフレットより


第4章 新たな造形表現への挑戦

〈1959年頃まで〉
第2次世界大戦と日本の敗戦、アメリカ軍による占領という状況は、日本という国に大きな変革をもたらした。それは過去の否定でもあった。戦後の美術界でも、伝統的な日本画への批判が高まった。そのような中で、福田平八郎は、揺らぐことのない信念をもって日本画の表現の可能性を模索した。徹底した自然観照によりながら、写実と装飾が高い次元で融合したすぐれた作品を生み出していく。



〈新雪〉 昭和23年(1948)

〈雲〉 昭和25年(1950)

〈雨〉 昭和28年(1953) 展覧会リーフレットより

〈氷〉 昭和30年(1955)

〈水〉 昭和33年(1958)


こうして代表的な作品を並べてみると、《漣》に始まった「写実を基本にした装飾画」は、福田平八郎が到達した日本画の一つの高みだったと言える。一見抽象画のように見える絵も、必ずその原風景が存在し、その写生が作品の出発点になっていた。この画家にとって、「写実」や「装飾」という言葉は単に外から与えられた枠組みでしかなかったのだろう。

平八郎は草花、鳥や魚といった動物、身近な食材から菓子まで、様々なものを描いているが、いずれも徹底的な観察を下敷きにしていた。

〈紅白餅〉 昭和24年(1949)

〈うす氷〉 昭和24年(1949)

〈牡蠣と明太子〉 昭和28年(1953)

〈桃〉 昭和31年(1956)



第5章 自由で豊かな美の世界へ

〈1960~最晩年〉
平八郎は、昭和36年(1961)を最後に日展への出品を止め、以後は、小規模な展覧会に心のおもむくままに制作した小品を発表するようになる。作風は晩年になるにつれ、形態の単純化が進み、線も形も色彩も細部にとらわれない大らかな造形へと展開していった。


〈海魚〉 昭和38年(1963)

〈游鮎〉 昭和40年(1965)



昭和49年(1974)3月22日、逝去。
福田平八郎の墓所は、京都市左京区の法然院にある。

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