人生、楽ありゃ苦もあるさ~
怒りは後悔で終わる
我が家の裏手の高台に光山寺という真宗のお寺がある。大晦日に除夜の鐘を撞きに行ったり、たまに散歩の途中に立ち寄ることがある。檀家でも信者でもないが、孫たちは、縁があって、ご住職が開いておられる土曜学校に参加している。
先日、旧村の中を散歩していたら、お寺の階段下の掲示板に、こんな半紙が貼ってあった。
その日の自分の気持ちを見透かされたようで、ドキッとした。
学校で、ある生徒を叱った。いや、怒った。冷静ではなかったと思う。すぐに後悔の念が湧き起こった。もう少し別の怒り方があったはずだと、自分を責めた。いやな気分が、一日離れなかった。
最近、怒りっぽくなったかなと思うことがある。孫たちも成長してきて、一筋縄ではいかない。思いがけない抵抗・反抗にあうこともしばしばである。人を育てるということは、本当にむつかしい。
三毒
除夜の鐘を108回撞くのは、108の煩悩を滅するためだと言われる。しかし一説には、人の煩悩は84,000あるともいう。恐ろしい数だ。
数ある煩悩の中で、最も根源的な煩悩を「三毒」と呼ぶそうだ。すなわち「貪・瞋・痴」の三つである。「貪」は「貪欲」(むさぼること)、「瞋」は「瞋恚」(怒ること)、「痴」は「愚痴」(おろかなこと)を意味する。「怒りの心」を持つことは、克服されなければならない大きな煩悩だというのだ。
しかし、ちょっと待てよ、と思ってしまう。不動明王のような仏様の形相、あれは怒りではないのか!
ものの本によると、仏様の怒りは「大いなる怒り」であって、個人的な「小さな怒り」ではないそうだ。個人の怒りは、対象への拒絶であり、自身を滅ぼすものだという。
う~ん、むつかしい。わかりそうだけど、どこかで「怒り」を切り捨てられない自分がいる。感情にまかせた怒りは問題外であるにしても、「冷静な怒り」というのはないのだろうか。
四苦八苦
非常に苦労すること、たいへんな苦しみを「四苦八苦」という。人生において、程度の差こそあれ、「四苦八苦」と表現したくなるような状況に直面することは、だれにもあるだろう。
実はこれも仏教用語なのだ。お釈迦さんは、人生の本質を「苦」であると説き、中でも最も根本的な「苦」を「生・老・病・死」の「四苦」とした。そして、さらに「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五蘊成苦」の四苦を加えて「八苦」とした。
すなわち、お釈迦さんの考えでは、「一切皆苦」なのだ。
さて、この最初の「四苦」のなかで、もっともわかりにくいのが「生は苦なり」だろう。なぜ「人生は苦である」「この世に生まれることは苦である」と言い切れるのか。
どうも仏教というのは、マイナスの認識からスタートしていくような一面がある気がする。「老病死」が「苦」であるというのは、いちおう理解できるが、「生」は?
こんな解釈がある。
この世に生まれることは、それに続く「老病死」への始まりである。
人生とは、「老病死」に向かって歩み続けることで、「生」は「苦」の始まりである。
お釈迦さんは、人間の存在そのものが苦であると言ってるんですね。
仏への信仰とは、その「苦」を乗り越えることなんだろうか。
ふと水戸黄門のドラマの主題歌が浮かんできた。
人生、楽ありゃ苦もあるさ~ 涙のあとには虹も出る~♪
こんなふうに気楽に生きたいものだ。
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