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小さな日常生活の巻。

ども。
毎度、院長です。
いつものように平坦に毎日が過ぎており、何か特別なことがあったわけでもないですが、珍しく11月に入り続けてブログ更新ができております。
拙者にとっての特別なことといえば、そうですね。カステラを自分のために買ったとか、駅の改札機は体の右側で操作するよう設置されていますが、そのパネルにいつもは利き手の左手で体にクロスするようにしてSuicaをかざしていたのが、ある日たまたま右手ですんなりかざせたとか。(左利き用の改札機があると助かるのじゃが)
まあ、そういう特別感であり。
カステラが唐突に出てきましたが、拙者、カステラっちゅうのはなんか高級な「頂き物」のジャンルになるのですよ。今時ではあれこれ高級なお菓子というのは山とありますが、何と言いますか。あの棒状のものを自分のためだけに長々1本買うというのは、とんでもない贅沢であります。っちゅうか、そもそもいっぺんに食べ切れないです。
もちろん何回かに分けて食べれば良いのですが、あの封を開けた時のふんわり柔らかいカステラの風合い・風味は、翌日以降には再現できないと固く信じており。
それなら小分けの一人分のものを買えば良いではないか、という声も聞こえてきそうですが、それは違います。
拙者にとってみれば、6号から8号くらいのホールケーキのいちごのショートケーキと、カットされた状態で売られているいちごのショートケーキとの違いに等しいのです。その味気なさたるや、如何ともしがたきものにて。
それにカステラのシンプルな素材構成も実直であり、表面の茶色くなっている柔らかい部分はいつみても素朴であり(この部分に焼印をおすなどはもってのほかである)、その部分にフォークを当てる瞬間は拙者、もう至福の時なのである。
ただ、カステラは最近ほとんど切れ目が入っており、拙者といたしましては棒状のままのものの方が断然良いのですが、こういうものを自分のために買うというのは、本当にあり得ないほどの特別なこと(っちゅうか無駄なこと)なのでした。

で、先日のこと。
「先生のブログ、誰に向けて書いているんですか?」と診療所にお越しになった方から唐突に質問を受けたのですが、はたと考え。
「むむむ。誰に向けて、であろうか・・・ううむ。」など心の中で呟いておると、その方は「例えば患者さんに向けて、とかですか?」と。
確かに、院長ブログを始めたのは、診療所を開業するのに何の準備もなくやってしまったためHPも資金もなく、来院患者数0を更新していた最中で、慌てふためいてとにかく何か宣伝せねばと思ったという経緯ではある。
しかし、ブログを更新していくうちに、よそ行きの言葉ではなく、自分の使い慣れた言葉で書いていかないと続けられないということに気がつき、頭の中でわんわんうるさく喋っている拙者の声をそのまま文字に起こすことにしたのであった。
その結果、このようなブログの形態になってきて、営業目的のはずが営業妨害のようなものになってきておるので、この期に及んで「患者様のために発信しております」とは、全くもっていえないのであります。
では何のために書いているのか?というと、やりたくてやっておるだけ、やらざるを得ないから、であります。とすると、自分のためでしょうか。
拙者の頭の中は、四六時中わんわん空想妄想大炸裂中につき、あれこれの言葉でうるさいので、一旦文字にして落ち着かせている、というところです。
そうすることによって、自分の考えをまとめていく作業になっておる気がします。
それに、拙者と似たような感覚の方がいて、それわかるわかるとか、何だよそれ、とかの一人ツッコミをしてくれてたらいいなと思ったりするのです。
これは、拙者自身が自分と似たような人がいてニンマリすることが、生活の中で時々あるからというのも関係するか。

1ヶ月ほど前、孤独のグルメ的な人の集結すると思しきカウンターしかない天ぷら屋に行った時のこと。
普通、天ぷら屋というのは年齢層が概ね40代以降のような印象があるのですが、その店は入ってみると20代の方が半数ほど、あとは30代から40代くらいかの、ちょっと珍しい感じでした。しかもカウンターの天ぷら屋には珍しく、20代くらいのデート利用のような形の客もおり。
口コミなどで評判が良いというのもあるせいかもしれませぬが、以前伺った時の店の雰囲気とは違っていたので、拙者はおずおずと着席したのでした。
拙者の右隣には20代後半くらいの男性が、携帯を手に料理を待っており、拙者の左隣には地方から出てきたと思しき30歳前後の女子会三人組。
女子三人の内訳としては、結婚して子供がいる人、独身の人などの組み合わせのようである。
女子会組は拙者と同じ、天ぷら御膳であり、揚げたての天ぷらをカウンターでそのままいただく形式にて。
海老の天ぷらから始まり、次々にあげられてくる食べ物を、女子会組の「この海老、プリプリして美味しい!」とかの歓声にまぎれ、拙者は黙々と食べ始めたのでした。
一方、右隣の青年のところには、器から天ぷらが溢れんばかりの大盛りの天丼が運ばれてきており。
その青年は天丼を前に、いじっていた携帯を箸の横に置き、手を合わせ「いただきます」と小さく一礼しております。
拙者、この礼儀正しい青年を微笑ましくみておりましたが、その後の食べっぷりがこれまたすごく良いのです。
海老の天ぷらから食べ始めておりましたが、一口ごとに「うんうん」と頷きながら、海老やご飯を掻き込みます。実に美味しそうで、満足そうです。
掻き込み咀嚼するごとに「うんうん」と頷きつつ、赤だしの味噌汁をズズズと飲み込み、また「うんうん」と舌鼓。
あっという間に食べ終わっておりましたが、本当に美味しそうで、みていても「次は絶対拙者も天丼を頼んでみようではないか!」という気になりました。
その青年、食べ終わると「ごちそうさまでした」とまた一礼して、すぐにお会計となっており。
こういうひとり飯を堪能している様子は、こっちまで「うんうん」とニンマリ頷きたくなる次第でした。

それから、もう一つニンマリした件など。
拙者、最近になり「もう少し日々の診療をマシなものにしていきたい」と思い、ユング派の先生による教育分析というものを受けるようになりました。
教育分析というのは、カウンセラーなど精神療法の専門家が訓練のため、よりベテランの精神療法家によるカウンセリングを受けるというものです。
拙者などは5分から10分の通常の保険診療行為で、自ら「雑談外来」など評しておる程度の、精神療法の専門家というには程遠いものではあります。それでも今よりもマシになりたいと思い、関係者からの紹介でユング派のベテランの先生の教育分析を受けさせていただけることとなったのでした。

初回は自己紹介のようなもので、その後も自分の過去のことを聞かれ、それに答えるという感じです。
普段自分の昔話を人に喋るということもないですし、自分の歴史のことなのにすっかりいろんなことを忘れていることに、自分自身でびっくりするような感じでした。
「どうしてそのような決断をしたのか?」というような人生の選択のところでの質問を要所要所で受けるのですが、その時はそれなりに考えていたと思うのですが、あまり思い出せない。
終わった後、ああそういえばあの時はこういうふうに思ってたんだった、など思い出したりするのですが、カウンセリングの場で言葉にしたことと言葉にできていないものとの間に、かなりギャップがあることに気がつきます。
このことから、語られなかった事実、の持つ意味を考えることとなります。
そして、このようなことを続けていく中で、夢も変化していきます。
先日の教育分析の中で、自分の見た夢(しつらえの良い、居心地の良い部屋の掃除をしている夢)のことを説明していました。その時先生から、「しつらえの良い部屋という場面ですが、あなたの部屋はいかがですか?居心地は良いですか?」と質問されました。
拙者の部屋は他者がどう思うかは別ですが、拙者にとっては極めて居心地が良いのです。
何がそこまで居心地が良いのかというと、それは家具にあります。
拙者、高校生の頃から家具や古道具、民藝、アンティークものが好きで、ちまちまと収集してきておりました。
しかし引っ越しを相当繰り返していたので、そのたびに収集した古道具関係は手放してきています。買っては手放し、を繰り返し、まさにドブに金を捨てるような感じの趣味というか道楽で、ついには手元に残していた古道具は、いつでも引越しの際に運べるよう、段ボールに入れたまま、押し入れの中に仕舞い込んだままになってしまいました。
それに、若い頃に収集していたものは後で見るとセンスの悪いものも多く、見る目がなかったなというのが一目瞭然なので、そういうのもさっさと手放すということを繰り返しており。
このように、拙者の人生においての相当な額を使い果たし、貯金などもできない余裕のない生活ではありましたが、ここ数年は納得のいく家具や古道具に囲まれて、心はとても満足しています。
でもって、拙者の居心地の良さは家具にあるというあたりの話から、どんな家具なんですか?など教育分析の先生が質問してくださるので、拙者は嬉々として「あれこれは大正時代のもので、一番古いのは土師器で、どうたらこうたら・・・」とか聞かれもしないのに、猛烈に一つ一つの家具とか骨董品の説明しまくっており。
ここまで家具の話を人様にすることなどこれまでなかったのと、拙者が家具や骨董に関心があり、そのことに興味を示して質問してくれる人がそうそういなかったことなどもあり、ちょっと質問してくれただけで大喜び。もう大満足となってその回は終了。
これがカウンセリングというものなのか〜。いいもんやな〜、余は大満足じゃ〜。
ニンマリニンマリ。うしし。
こんな大満足感を職場の事務長に話したところ。
「それって、自閉症で鉄道関係ものの収集癖のある患者さんとかが、ずっと収集したものを喋っているような感じですかね?」とか。
むむ。
むむむ。何と、事務長。拙者、自閉症?
確かに、拙者の診ている患者さんでそのような方がおるですぞ。
拙者はその患者さんの収集しているものそのものの価値とかはわからぬですが、収集していく興奮というか何というか、特定のものに対する愛着のようなものへの共感があり、その患者さんの話をいつも楽しく聞いておったのでした。
拙者の家具や骨董品の収集はこの患者さんの域には到底及びませぬし、患者さんの収集しているものへの知識は拙者は乏しいです。
でも、拙者が教育分析で受けた満足感を振り返ってみれば、聞いている相手の知識のあるなしより、興味関心を持って自分の興味のある部分の話を聞いてくれていることの満足感が大きかったのです。
拙者も、患者さんが関心を持つところの話を、今まで以上に興味関心を持って聞く姿勢を持とうと思うた次第です。

など。
なんてことはない、拙者の小さな日常生活の巻。