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隙間の時間にて。

ども。
毎度、院長です。
昨日に続いて本日もブログ更新というのは、特にやることがないからでして。
やることがないというより、やる気になれないということが山積みになっているせいであります。
本日朝から自宅の固定電話がなぜか繋がらなくなっていて、各方面に問い合わせ中でお答え待ちというところで宙ぶらりんだったり、インスタグラムの更新をしようと思ったら、アップしようとする画像がパソコンの中で見つからなくなっていて、もしかしたらなんらかのはずみで消去していたのか、いやそうじゃないだろう、職場のパソコンにあるのか?などなど。
あれこれやりかけのものはあるけれど、どれも決着しないままでいる、なんともやりきれない宙ぶらりんな中で、じゃあインスタグラムの別の画像の部分をアップしたりすればいいじゃないか、と思うのですが、今は数年前に訪れた北イタリアの画像をアップしている最中で、その画像と場所の同定に時間がかかっていたりで、なんだか面倒に感じたりして。
要は、何をするにもスムーズにいかないので、いじけているのですよ、拙者。
いじいじいじいじ。
こういうくどいくらい同じ場所でいじいじしているところで、最近いくつかの小説を読んでいて出てきていた芥川龍之介の言動に、ちょっと息がつけるような感じがしておったのでした。
年末から年始にかけて内田百閒を読んでおり。その中の「山高帽子」の中の登場人物・野口は芥川龍之介をモデルにしているそうなのですが、この野口という人がエキセントリックでありつつも優しく、妙に印象深いなと思うておったのでした。
内田のなかの狂気や心情などを誰よりもよく理解しているという野口のまなざしに、この二人の友情のあり方をじわり感じておった次第でした。
そしてつい最近、佐藤春夫の短編を読んでいたら、「あさましや漫筆」というものに芥川龍之介と谷川潤一郎が出てきておったのでした。
そこでは上田秋成の雨月物語の中の「蛇性の婬」の批評を3人でしている場面が描かれております。
谷崎がこの作品が雨月の中で一番だといい、傑作だとまでいうのに対し、佐藤春夫は同意できないところがあり、谷崎に反論するのです。

「あの作は持つてまわつてゐる。一本調子なくせにくどい。それにいやらしい。」
 龍之介がそばから
「いや、小説といふものは本来くどくていやらしいものだよ。ーそれが好きでなけや小説家にはなれないのさ。蛇性の婬は僕もいいと思ふね。」
 小説は本来くどくていやらしいというふ、龍之介の見解は同感するとしても、(これはつい近日のことだが、やはり龍之介とふたりで、「風流では小説は書けない」と話し合つたこともある。)蛇性の婬に就ては、余は言い張つた。「いや、僕は両君がなんと言つてもいやだね。くどい。持つてまわつてゐる。吉野まで引つぱりまはさなくてもよからう。」
「いや、あれがいゝのだ。」と潤一郎が言ふ。「あんな遠方までつけまはしてゐるのが値打だよ。吉野といふ名所もよく使つてあるな。」
「うむ。」余はその言葉には賛成してもよかつたが、しかしあれを嫌ひだといふ感じはその為に消失することはなかつた。つまりどこまでも余の好みに遠いのである。
「それぢや何がいい」龍之介が念のためにたづねた。
「短いものさ、白峰でも、・・・(後略)」(強調は原文では傍点)(あさましや漫筆/佐藤春夫)

この佐藤春夫の短い文章の中でも、芥川龍之介が相手の心情をあっさり思いやりつつ対話している様子が、内田百閒の小説の中の野口と似たような趣で浮かび上がってくるのです。(内田も佐藤もどこか駄々っ子のような雰囲気が小説の中でしており。それを宥める風でもないのですが、相手への関心を持ちつつ自分を出しつつ対応しているのが芥川、というような印象に拙者には読めておったのです)

小説は本来くどくていやらしいというのは、最近小説を読んでいて「ほんまにそうだ、くどいよ、しつこいよ」と思うのでした。
こういうのが小説の本来的なもののようですが、小説に限らず、拙者の日常もくどくてしつこい繰り返しの毎日ではあります。
人の営みというのは、本来的にそういうものなのかもしれないです。
それに「風流では小説は書けない」という見解も、なんとなく面白いなと思うところでした。風流では人生は描けない、という感じか。
それぞれの文芸作品の違いを教えてもらっているような感じがいたします。