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雨降らし男・因果律からの解放

ども。
毎度、院長です。
とんだご無沙汰でしたが、その間、ブログ発信についてあれこれと考えておりました。
あれこれと日々のぶつくさを気の向くままに発信していたのですが、こういう遠心的な動きはちょっと一休みした方がいいのではないか、というところについてです。
遠心的、というのは拙者自身の人生そのもののことです。
外へ外へと意識が向かい、内的に掘り下げられないという問題です。
その都度あれこれと気づいたりしたことをその場で発信して、次々と外側の反応に終始する、そんな生き方はそろそろやめた方がいいんじゃなかろうか、と。
そういう俯瞰的な見地などは、賢い人はもっと若い頃にきちんと見出しているのでしょうが、凡庸さゆえ、拙者は人生の秋にどっぷり浸かってからようやく実感として得られてきたのでした。
そういうところに因んで、冒頭画像は航空写真なのでした。近畿地方だったか四国地方だったかの上空から写したものです。

それなりに精神的なところのあれこれをこれまでも発信してきていたつもりですが、それも表面的なところで留まっていたような気がしたのです。
知的理解にとどまるというのか、ある程度感情的・感覚的な領域であったとしても、所詮は了解可能な領域に留まっていたというのか。
その了解可能というのは、因果律から自由になっていないところから来るのではないか、という気がしました。
因果律というのは、「これこれのことをしたから、こういうことがあったから、こうなった」というような思考ですね。
医学においてはこの考え方、因果律によって治療しているわけです。
つまり、症状が出ている時、それには必ず原因があるはずだ、ということで検査をしたり問診したりして情報収集し、診断を下す。そしてその診断に基づいた治療が行われ、症状は改善する、というパターンです。
いかなる現象にも原因がある、というような考え方は、今の科学信仰の時代では一般的ですが、それが社会全般・生活全般に及んでいて、そのことが人の行動や人格にも多大な影響をきたしているのだな、と思うのです。
ま、一方でデジタル面では「よくわかんないけど、とにかく再起動させると良くなる」とかも共存しているので、一概に因果律だけを頼りに人が動いているとは思いませぬが。
しかし、信仰の部分においても、「祈ったから治った」とかいうことがあります。
これも因果律がベースにあり、こういうふうに受け取りたくなる気持ちはわからなくはないし、祈りの必要性についてわかりやすいのだと思います。
でも、聖書の面白いところは、因果律で統一されていないところなんだと思うんですよ。ヨブ記の構成なんてのも、因果律だけで収まらないところが魅力だったりしますし。
聖書は人間にとっては未完かつ不可解な書であるが故の、広がりがあるのではないかと思うております。
あああ。すぐに脱線してしまう。っちゅうか、書きたいことが多すぎるけど、言葉がついてこないぃ。
ああ、もう、人がどういう物語を持とうが、どう聖書を読もうが構わないのですが、拙者に関しては、この因果律で構築される物語に飽きたのですよ。
とはいえ、診療場面では拙者、「どうして、こうなったんですか?」「なぜ、この病気になったんですか?原因はなんですか?」などの質問に答えていくことが要求される医者の立場にあります。
拙者、わかったようにあれこれ説明していくのですが、わからないものはわからないし、さも見てきたかのように説明する自分もなんだかな、と思うたりします。
そういうモサモサした気分のところで、面白いなと思う物語に出会ったのでした。

自然(じねん)モデル
これはユングが中国研究者のリヒャルト・ヴィルヘルムより聞いた話として伝えているものである。ヴィルヘルムが中国のある地方にいたとき旱魃(かんばつ)が起こった。数か月雨が降らず、祈りなどいろいろしたが無駄だった。最後に「雨降らし男」が呼ばれた。彼はそこいらに小屋をつくってくれと言い、そこに籠った。四日目に雪の嵐が生じた。村中大喜びだったが、ヴィルヘルムはその男に会って、どうしてこうなったのかを訊いた。彼は「自分の責任ではない」と言った。しかし、三日間の間何をしていたのかと問うと、「ここでは天から与えられた秩序によって人々が生きていない。従って、すべての国が「道(タオ)」の状態にはない。自分はここにやってきたので、自分も自然の秩序に反する状態になった。そこで三日間籠って、自分が「道」の状態になるのを待った。すると自然に雨が降ってきた」というのが彼の説明であった。(中略)
筆者の実感で言えば、この「雨降らし男」の態度は、心理療法家のひとつの理想像という感じがある。かつて棟方志功が晩年になって、「私は自分の仕事には責任を持っていません」と言ったとのことだが、似たような境地であろう。治療者が「道」の状態にあることによって、非因果的に、他にも「道」の状況が自然に生まれることを期待するのである。

(河合隼雄/心理療法序説)

拙者、最近つとに思うのですよ。
あれこれ祈り願い、あれこれ動き働き、そういう遠心的な活動を一旦止めて、静まる必要性を。
筋トレでもトレーナーからいみじくも、「あなたは遠位筋に頼りすぎている。もっと体幹部を使ってください。体幹部の方が筋が大きいから力が出るし、そうすることで遠位の関節を痛めなくて済むのです」との指摘を受けており。
自分の中心部、内的な部分を整える、内的な部分、中心部を使う。
これは遠心的な方向からの転換で、求心的な方向であろうぞ。
診療の場においては例えば、患者さんが家庭内で、職場で、人間関係で大変な状況の時に、命の危険性があったり暴力的なところであったりするのであれば、まずはその場から逃げることです。拙者はそれを助言し、応援します。
そして逃げた先が比較的安全な場所であるのなら、そこから次に何をするかにをするといった現実的なことも大事ですが、ある程度落ち着いてきたなら、課題は山積しているとしてもまず、患者さん自身が内なる自分を整えていくことです。
しかし、そういう理想論的なことを拙者が説いても、混沌とした現場にいる当事者の方々にとっては絵に描いた餅でしかない。
そんなとき、引用した物語が拙者にとってはモノを言うのです。
まずは拙者が、「道」の状態にあること。拙者のうちで調和すること。
上記引用文の「道(タオ)」「自然」の話に関しては、老子の思想からきているのだろうと河合氏は指摘しております。
拙者の場合は、「道」と言うのはイエス・キリストです。ここをどう説明したらいいのかわからぬのですが、ここでは雨降らし男のように、自分が「道」の状態になると言うのは、拙者がイエス・キリストになるとかいう意味ではないのです。
そういうのではなく、我がうちにイエスあり、イエスのうちに我あり、という感じでしょうか。
まだよく表現できない部分ではありますが、この雨降らし男の物語に関しては、河合隼雄氏がおっしゃる通り、これこそ「心理療法家のひとつの理想像」であります。
自分が内的に整っていくこと、それが、非因果的に、患者さんにも「整っていく状態」が自然に生まれることを期待できるのではないか、という気がします。
拙者があれこれ患者さんに積極的に働きかけずとも、患者さん自身が、自分で治っていく、そういう治療の道筋を今、拙者は内的にジタバタしているところです。

蛇足ですが、引用文の「雨降らし男」の物語はとても印象的だったので、きっとどなたかのブログにも取り上げられているだろうと思って探してみました。
すると、上杉絵理香(うえすぎ えりか)さんのブログで取り上げられていました。
そのブログの別の引用文もとても良く、拙者がその元の本を読んでいないため、その引用文についてはそのまま、そのブログから引用をさせていただきます。

Build a better world,” said God.
And I answered,
“How? The World is such a vast place,
And so complicated now,
And I’m small and useless;
There’s nothing I can do.”
But God in all His wisdom said,
“Just build a better you.”
ーAnonymous
(「よりよい世界をつくりなさい」と神はおっしゃられた。
私はこう答えた。
「どのようにですか?この世界はかくも広大で、
複雑きわまりない場所となりました。
私はちっぽけで役に立たない人間です。
私などにできることは何もありません」
しかし、全知の神はこうおっしゃられた。
「より良い自分をつくりなさい」
ー作者不詳
“SMART TALK” 日本語訳、「アファメーション」(フォレスト出版、2011))

(上杉絵理香さんのブログから)

ニュースでしか伝わってこないウクライナ情勢が、私たちの日々の生活において、例えば物価高という直接的な体験に繋がっています。
直接目に見えないことであっても、地理的に離れていて関係していなさそうに見えても、どこかで起こっている事に自分は関係してゆく、という事実。
このことによって、私たちは希望を見出せる、そんな引用文ではないかと思いました。

駒込えぜる診療所 院長