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2,「みんなが一律に同じ事を学ぶ必要はあるのか?」

こちらの記事は「ニッポンの教育よ、コロナ休校が見せてくれた可能性をここで活かさずいつ活かす!?」の記事からリンクしています。

私の小学校4年生の時の通知表。
評価欄に「動作がのろい」のひと言が書かれてあります。

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今の時代に通知表に書いたらまず問題になる「のろい」という言葉。その言葉は、当時の私をそれこそ「呪い」にかけました。

「私はダメなヤツなんだ。私は人に比べてのろいから、人と同じにできないダメなヤツなんだ。」

この「呪いの言葉」を私の通知表に残したのは4年から6年まで3年間の担任。振り返ってみたときに、私はこの3年間良い思い出が残っていません。結構覚えているものです。「今の私」を形成する部分になっている記憶を小学校〜中学校までちょっとプレイバックしてみます。

プレイバック〜小学校時代の私(低学年)

私は「保育園・幼稚園」に行っていませんでした。小学校が「初めての社会進出」でした。

入学してすぐの6月に、転校しました。入学した学校と違って歴史ある木造校舎。すごく田舎で机は2人ずつ座る木の机。背が低くて幼稚園児と間違われやすかった私は、今のように高さ調整出来ないので机のサイズが合わなくて溺れているような感じでした。

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担任の先生は身体が小さくて要領も悪い私が一緒に勉強出来るように配慮してくださっていたと思います。かわいがってもらっていた……という温かい記憶が残っています。

2,3年の時の担任の先生は、優しい厳しさを持った先生でした。
給食は残しちゃいけないから最後まで食べきらないといけないのですが、その先生のご指導のおかげで給食残さず時間内にたべられるようになりました。泳げるようになってその年のうちに、25メートルプールを2往復できるようになって、頑張ればできる、と自信をつけてもらってめちゃくちゃ嬉しかったのを覚えています。

プレイバック〜小学校時代の私(呪いがかかった高学年)

高学年。担任がかわりました。
その頃の記憶をひと言で言うと「恐い」「苦しい」。
私は小学6年の時の身長が120しかないくらい小さくて、風邪ひきやすく病弱でした。一番苦手だったのは「体育」。背の順に並ぶと一番前。全校体育の時の「整列」ではまず一番最初に位置につくのに、何回もやり直し。全校体育のあとは私のクラスだけ「マラソン」。担任が校庭の隅から隅まで延々と走るあとについて5分走るのが辛くてたまりませんでした。

給食も高学年で量が増えて最後まで食べられず、教室の隅でみんなが掃除している中で食べ続けなければなりませんでした。忘れもしない、初めてテストで0点取ったのもその頃です。「時間・速さ」の単元のテストでしたが、単元の学習の間風邪ひきで休んでいて、治って出て行ったその日に(全然勉強していないのに)そのままテスト、で0点。

その「0点の記憶」もまた、「自分はダメなヤツ」と思いこむ原因のひとつでした。加えて「動作がのろい」の呪い。私は、自分が世の中で一番嫌いで自己肯定感もなく、役に立たないダメ人間だと思っていました。

プレイバック〜中学校の出会いがあったから

そんな私が何とか立ち直れたのは、中学の担任のおかげです。大人になってから同級会で、こう言われたのが印象的でした。

「ぼくは、君を見た時に”なんでこの子が、こんなに縮こまっているんだろう”って感じたんだよ。」

小学校低学年の時は「頑張ればできる」という気持ちでいたのに、いつの間にか「自分はダメ人間」と縮こまってしまった私を見いだして、私が頑張れる状況を作ってくれました。担任は音楽の先生で、私も音楽は好きでした。音楽の時間に伴奏担当になった時も家には電気オルガンしかなかったので、担任が自宅に練習に来るようにと誘ってくれました。

また、担任だけでなく各教科の先生方も素晴らしい方々で、発言することの恐怖を取り除いてくれたのが国語の先生や英語の先生。小学校の0点の挫折感から苦手だった数学は、2年生の時の教科担任の授業が面白くて、そこから好きになりました。

「みんなで同じ」は「同じにできないとダメ」ということ

給食を時間内に食べ終わらないとダメ。
マラソンも、一緒に走れないとダメ。
勉強も、行動も、すべてみんなと同じにできないとダメ。

「みんな同じようにできる」のをめざすことは、特にまだ成長の過程にある小学生にとってはかなりキツいこと。私は、自分自身の小学校生活を振り返って本当にそれを感じます。

改めて、自分自身先生として教える立場になってみたときに「動作がのろい」という呪いの言葉の意味を考えてみました。

低学年の時にもやっぱり動きはそう早くなかった私が「頑張ればできる」と思えていたのは、お二人の担任の先生方が「私のペースを理解していた」からなのだと思うのです。

記憶をたどると、お二人はよく私の名前を呼んでくださいました。それだけ私を「みていて声がけをして」下さっていた。「頑張ればできる」と思えたのは、「頑張っている」私をみて、担任が「できると信じて」見守ってくださっていたから。

これが、みんな同じ時間内にできることを求められていたら、「できた!」というところまでは行かずに「できない自分」だけが残る。高学年の時が、そういう状態だったのだと思います。

たとえば体育の試合でも、私はまず「ルール」や「動き方」をしっかりと自分で考えて理解しないと動けない。一旦「わかった」となるとあとは早いのですが、ちゃんと納得しないと動けない。それが「動作がのろい」の原因だったんだな、と思うのです。

3年の時に、水泳で泳げるようになったその年のうちに25メートル2往復できるようになったのも、「泳ぐ」がわからなかったから泳げなかった(恐怖だった)のが、「こうすればいいんだ」とわかればあとは自分で工夫出来るので長距離も可能になる。

けれど、この「理解する」過程は一見「動いていない」状態なので「(どうすればいいかわかって)動けるようになる」までは時間がかかる。

その時間がかかる部分を「のろい」という呪いの言葉で評価されてしまった私は、そこから後の3年間を「自分はダメなヤツ」と思いこんで過ごしてしまったのでした。

「個性」……それは「みんな同じ」では育たない。

私は、「どう動くか」がわからないだけだったので、大人になってテニスを愉しむようになって「運動音痴じゃなかったんだ」とわかりましたが、それまで「体育は苦手」だったので、運動会や体育祭、クラスマッチは嬉しくない行事でした。

一方で「どうすればいいかわかる」音楽は得意だったので、音楽会があったおかげで劣等感につぶれずすみました。

中学に入ってから数学も国語も英語も「どう学べばいいか」がわかったので、それなりに成績も良く、高校は進学校に進みましたが、小学校の時は「勉強苦手」な自分がいました。

教師になって、家庭教師もやって、たくさんの生徒たちと出会って思うのは、そんな私の「一部分」を子ども達はみんなどこかに持っているなぁ、ということ。

勉強が苦手で縮こまっている子どもも、テストはできるけどどこか自信がない子も、子ども達は必ずどこか「自分はダメなヤツ」と思っている部分があります。でも、その「ダメなヤツ」の部分って、案外「周りと違って同じにできない」ことから派生してくるような気がします。

公平と平等

「同じにできない」ということにフォーカスする。


「熟考して納得するまで動けない」特性がわかれば、私には「自分でしっかり考えて納得出来る」時間とそのための多少のヒント(支援)があれば、あとはちゃんとできるようになる。

一方、考えるよりも身体を動かして身につけていく子にとっては、その「考える時間」は苦しい時間になる。だらだら説明するよりも「さぁ、やろう」と試行錯誤の時間をもらった方が活き活きできる。

それを、今の「ニッポンの教育」→教室で30人が同じ授業を同じ時間受ける状態……で、成立させることは難しいのではないでしょうか?

小学生の算数の教科書一冊とっても、一年間ですべてをしっかり理解してできるようになるには大変な「内容」がつまっています。30人いる教室の中で、すべての子ども達がどこにつまずいて、どこで悩んでいるか把握するのも困難で、結局評価は「宿題提出」と「テストの点数」ではかっていくしかなくなってしまう。

「学習指導要領」という各学年、毎月習得すべき学習内容が提示されていますが、これを一クラス全員、全学年の子すべてに、しっかり理解させられるというのは相当に困難なことです。

「オンライン」と「オフライン」の活用の可能性

コロナウイルスによる休校措置で、突如注目を浴びはじめたオンラインの学習指導。このオンラインの学びは、「同じにできない」状態がデフォルトです。家庭ごとに環境が違う。ちょっと席を外しても気にならない。逆に、ひとつの画面にずっと集中している方が大変で不自然です。

一方で、教室の机で黒板に向かう環境では、全員が同じ一面に並ぶという状況は有り得ません。でも、オンラインでZOOMなどを使って並ぶ子ども達の顔は、同じ面にアップで映っています。表情はどの子もよく見えるし、個々の子に呼びかけようと思ったら、チャット機能でプライベートに話が出来る。3次元ではない立体のコミュニケーションが成立するのです。録画機能もあるので、授業記録を残し、あとで見て個々の子の様子もわかる。

教室の一時間と違って「みんなで一緒に」という部分を無理やり作らなくてもなり立つのです。

ただ、それが成り立つためには「同じ画面に並んでオンラインで繋がる」人たちは、オフラインである程度互いの空気感や特色を理解している必要があります。すべてをオンラインに移行しても、ある程度のコミュニケーションがリアルで成り立っていないと、表面だけのやりとりになってしまいます。

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そのあたりの「バランス」を考えて、両者のメリットを活かした構成が組めれば……学校で教室で一緒にやる学びと、家庭でオンラインを通じて個々が深める学びとを両立出来たら……かなりダイナミックな学びの形が成立するのではないでしょうか?

教室では見取りにくい子ども達の1人1人をPCの画面の上で見ながら、それぞれが自分のペースで学び、場合によっては学ぶ内容も、自分の不得意を補充する時間にしたり得意を伸ばす時間にしたりすれば、ひとつの授業時間の中でみんなが違うことをやっていても気にならないのです。

自分のペースで、自分に必要な学びを、自分で決めて学ぶ。
教える側は、全員を見渡しながら支援が必要な子には個々に指導や支援を。

休校が終わったから、またそのままみんなで一緒に学校へ!となったら、せっかく見えた「個別の学びの形」を深めることができない……それって、もったいないなぁと思っています。

オンラインとオフライン、それを両立出来る学びの形。
個別と全体、双方の支援が可能。個々の子どもの個性への対応も可能。
なんだかすごく楽しい学校になりそうな気がしますが、皆さんはどう思いますか?


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