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私の一部はかけこみ亭でできている

国立市谷保にあるかけこみ亭

店主ぼけ丸が経営する怪しいたべのみ屋

玄米菜食の自然食を出し、石油製品を使わない

そこには音楽をこよなく愛する人、

芝居を愛する人、芸術を愛する人が集まる

同調圧力とは別の世界に存在し、

社会的弱者に寄り添い、世の中の不条理に声を上げる

レジスタンスが集う場所

店主のぼけさんは、何かあると一人でのぼりを上げ

国立駅をデモ活動して、新聞に載っちゃう人である

私はこの店の3代目かけこみ娘だ

10代のころ、脳性麻痺の人のホームヘルパーをしていた

その人は毎日飲み歩く人でかけこみ亭もその中の一つだった。

その人の介護をするために毎日の飲み歩きにつきあった

地下にあるその店は、入るとどこか懐かしい匂いがした

そこで初めて私は玄米菜食というものを食べた

自分の周囲でそういう生活をしている人がいなかった

物凄い美味しい、何だこれ、と思った

トイレや壁にはいたるところに死刑制度反対とか、原発反対や

そのころ、六ケ所村ラプソディの映画の上映をしていたので

そのポスターが貼ってあった

突然、コンポステラが流れてきて、全身に電気が走った

コンポステラは私が大好きな篠田昌巳さんというサックス吹きの人

が晩年に演奏していたバンドだ

コンポステラ店で流しちゃうーー!?
これがまた、合う

かけこみ亭にロックオンしたのは言うまでもない

時は過ぎ、私は自分の中ではプラプラしてないが、

世的には肩書のない一日中サックスを吹く生活をしていた

介護福祉士になり、施設で働いた後、ずーっとーサックスを

吹いていたいなと思い、バイトしながら

毎日スタジオで練習し、バンドをし、セッションに行く生活をしていた

前の職場の大好きな先輩同志が結婚することになり、

嬉しくて私が結婚式の二次会をかけこみ亭で企画した

二次会の中で上司と先輩と演奏した

それが無事に終わり、私は自分の条件に合うバイトを探していたが、

見つからずに難儀していた

二次会のあと、企画を手伝ってくれた先輩がかけこみ亭に飲みに行った時

ぼけさんに「あのラッパ吹きは何してんの」と言われ、

「今、バイトが見つからず困ってるんです」と先輩が言うと

「うちで働けばいいのに、うちで働きな」と言ってくれた

そんな流れで晴れてかけこみ娘になったのである

履歴書も面接もない、どこに住んでるかも分からない

名前だけ知る人をバイトに雇う、そういう店である

そのころのかけこみ亭は暗黒時代

お客さんがほんっとに少なくて潰れる寸前の状態だったようだ

今も経営状態は大きくは変わらないと思うが・・・

ぼけさんは昼間パートに出るようになった

私はというと父親が家を出てしまい、母親もおかしくなり、

兄は自由にして帰ってこず、家が崩壊している状態で、この家をどうしていくか悩んでいた

かなりのメンタルダウンを繰り返していたが

サックスを吹く生活と、看護学校の受験勉強の二本立てをはじめていた

心のバランスが崩れていたのでお客さんのところに出るのが苦痛で

仕事せず奥で勉強していた

ぼけさんはいつも私のことを人に話すとき、

お客さん来たよーって言っても、ぼけさん出てくださいって

仕事しなかったんだよーと面白可笑しく話すが、事実である

ぼけさんは借金まみれの店が危ういのにおそらく私のバイト代捻出

のため昼間働いていた

時々、ライブで盛り上ある日もあったが、そのころはライブも少なかった

沢山のアングラ界の人々が集う店

豊田勇造さん、岡林信康さん、林栄一さん、ヨシミツニィニィなど

あげればきりがないが凄いミュージシャンが関係する店

私が辞めたあとは星野源さんことSAKEROCKの人達が

レコーディングやライブに使ってたらしい

自分がかけこみ娘のころ、風の旅団というテントで芝居をする集団が

よく打ち上げに使っていた

打ち上げがものすごい濃かった

風の旅団は生演奏で篠田昌巳さんのコンポステラが

演奏していたこともある

もう亡くなっていたが篠田さんは国立に住んでいた

お姉さんも近所に住んでてたまに訪ねてきた

憧れの篠田さんの関係する店にいられて幸せだった

篠田さんは、私と同じ難病で30代前半の若さで亡くなった

余談だが、かけこみ亭のことを麦っ子畑保育園の卒園文集に

書いたことがある

その後、読んだスタッフの一人が

「やだー、お母ちゃん(私)読んだよー。私、風の旅団のおっかけ

してて、入りたいと思ってたことがあるのー」と。

そして、またもう一人のスタッフが

「やだー、お母ちゃん(私)先月かけこみ亭初めて行ったんだよ。

働いてたの?すごいいい店だよねー、大好きになっちゃった。」と

麦っ子畑保育園がどれだけコアなスタッフで固められているかが

分かった瞬間である。

話戻して、

お客さんが来ない日は、申し訳ない気持ちもあり早く帰った

ぼけさんは何か食べなきゃ~とまるでおかんのように

慌ててでっかいおにぎりを握って持たせた

翌日、図書館での受験勉強の合間に神社でおにぎりを食べた

いつもは梅干しが入っているが、

元気がない日は昆布とおかかも入っていた

あの短時間にこれらをぶちこんで急いで握ってくれた姿を

想像してありがたくって、神社で泣きながら食べた

看護学校に合格し、私はかけこみ娘を卒業した

それ以降、かけこみ亭はバイトは雇っていない

今は、かけこみ亭を運営していくためにぼけさんは昼間バイトしている

当時からぼけさんの自宅には終電を逃した人や

家出娘・家出少年などがほぼ常時居候していた

3・11の時は、お店をしばらく帰宅困難者に開放した

その時の経験から収納式の木のソファに変え、収納の中には毛布が沢山入っている

私は六ケ所村ラプソディの活動やいろんな考え,

社会活動をしている人、ぼけさんの背中をかけこみ亭で見てきた

でも私はそれらを、よくやるなーと冷めた目でみていた

原発事故が起き、私はそんな自分をとても悔やんだ

一人のデモ活動や署名活動で何が変わるものか、

変わらないのにやったって仕様がないくらいに思っていた

でも私は311の時、ものすごく後悔した

変わるとか、変わらないとかこれから起きる結果事体は現時点では

関係がない。

私が後悔したのは、その時、その場所で、全力で考え、全力で意思

表示をしてこなかったことである

3・11後、自分の行動に後悔しないよう、デモに行ったり

署名活動や社会活動に目を向けるようになった

政治は遠くで起きていることではなく、自分の生活に直結している

ことだった

そう思えたのは自分の中にかけこみ亭での経験があるからだと思う

20年以上ぶりに家族を連れてかけこみ亭に行った

雑然さは増したが、匂いも感じもそのまま

当時から比べると、相当痩せてる私は気づいてもらえないと思いながら

「ぼけさん、久しぶり。店やってる?誰か分かる?」と聞くと

「分かるよー、少し痩せたけど〇〇〇でしょ?」

とすぐに言い当てた

店には大テーブルに中国人の子が自分でクッカーみたいなもので

カレー的な物を作り、自分で食べていた

え?持ち込みOKになったの?っていうか持ち込んでる人
客なの?客なのか?

大胆に料理している人を見たことなかったけど・・なるほどー

家族で食べ始めていると、かまやつひろしみたいな髪型の

オーバーオールを来たおばあさんがミネラルウォーターを

持って入ってきた

また、持ち込みー?内心思いながら食べ続ける

おばあさんはぼけさんに食べる?と聞かれながらお通し的なのを

出してもらっていた

しばらくすると、何も頼んでない持参の水を飲んでいたおばあさんは突然私たちの所に来て

「私はもう寝ますから」そう宣言して、木の椅子でスヤスヤ寝始めた

さすが、この店に来る人、みんな自由過ぎるーーーーー

ぼけさんはお金はないがやりたいことや夢を話すと必ず人や場所や物と繋いでいた

かけこみ亭と関る人が、元気になったり救われたり、行きたい道へ進めるように

今も店を運営するために、昼間働いている

今日もかけこみ亭には、毎年行う福島を思うライブをし

多くの社会の不条理を憂う、レジスタンスたちが集い、

ヨシミツニィニィのWe shall overcome を歌いながら、

社会がよくなるよう力強い祈りの拳を上げる

子供ができ、色々なことを考えるとき、少しの間過ごせた

かけこみ亭のこと、ぼけさんのことを思い出す

私はぼけさんからもらったものはぼけさんには返せないし、返さない

ぼけさんからもらったものは

次の誰かに自分ができる形で返していこうと思う

We shall overcome somedayになるように。

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