双極性障害は鬱から躁への回復期が一番死にやすいみたいな話

 今回は、自分の過去について書いてみようと思う。


 乙一の『死にぞこないの青』を読んだときに、自分と似ていると感じた。

 「悪口を言っても、私物を壊しても、軽い暴力を振るっても許される存在。事実上、学校がそれを公認している存在」

 それが学校での自分の立ち位置だった。


 いじめは、早期発見と早期対処が重要になってくる。

 学校は当然ながら勉強をしに来る場だ。教師の仕事はいじめられっ子のために戦うことではなく、学級を運営することだ。

 たった一人のいじめられっ子のために立ち上がるというのは美談ではあるが、関係ない生徒が学校で義務教育を学ぶ権利も決して侵害されてはならないものである。

 それに、単純に、いじめられっ子は一人しかいない。いじめられて騒ぐのも、せいぜいその一人と保護者ぐらいだ。

 ところが、いじめられっ子を助けるためにひとたび学級崩壊が起こりでもすれば、教師を責める人数は何十人になる。教師の出世や学校での立ち位置にも影響するだろう。

 天秤にかけられるのは、いじめっ子といじめられっ子ではない。速やかな学級運営と、たった一人のいじめられっ子だ。

 そういう「大人の事情」を踏まえれば、いじめは小規模なうちに解決しなければならないとわかる。いじめ解決の代償が学級崩壊にならないうちに。いじめの加害者が多くならないうちに。いじめを解決することが「学級の日常を変える大事件」にならないうちに。解決されなければ、その解決は非常に困難なものになる。

 私の子ども時代のケースでは、教師は「早期発見と早期対策」に見事に失敗した。子ども心にいじめを解決しなければいけないと思ったころには、「こいつには人権はない」という認識が常識になってしまっていた。

 根本的解決が不可能であると理解した教師は、見て見ぬふりを決め込んで解決を諦めたようだった。

 いわゆる「いい子」だった私は、人権がない状態を耐えてしまった。母に「根性こそが美徳である」と教え込まれた私は、十五歳で双極性障害を発症するまで、耐えてしまった。

 今にして思えば、それは周囲の人間にとってあまりに都合がいい対応であっただろう。あらゆる責任を私に転嫁して、私が耐え切れなくなったら「社会不適合者」の烙印を押す。嘆く気すら起きなくなってしまうほどに、現代日本においては陳腐な悲劇だ。


 耐えてしまった、と表現する。ネグレクトの家庭だったので助けを求められる相手はいなかったので、耐えるほかなかったのだけれど。

 声は上げれらるうちに上げておくべきだと思う。「私は被害者なんかじゃない。人生は自分で切り開ける!」という気概は、実際に人生を切り開くために必須のものであったし、それがあったからこそ得られたものも数知れない。それでも、それによって失ったものの数も知れない。やせ我慢は時と場合を考えるべきだ。

 子どもの頃に死んでいれば、自分はきっと被害者と呼ばれることができた。今は一応「あの時死ななくてよかった」と言えるような日常を過ごしている。人生は死なない限り続いていく。

 時を経て、被害者は障害者になった。障害者だって生きていかなければならない。

 いじめ被害者という「擁護されやすいポジション」に上手に滑り込むことすらできずにいい子をやってきた自分が、いきなり器用に障害者をやれるはずがなかった。障害者はめでたく社会不適合者になり、自己責任という嘲りがあとに残った。


 生き物のからだは、極力生き永らえるように努力するように思う。そりゃそうだ。野生の環境下では、死ぬことよりも生きることの方がはるかに難しいので、そうできているのが普通だ。

 本当に死にそうな環境下では、意外と「死にたい」とは思わないものだ。そりゃあ、思ったけれども、適応して生き延びようという本能の方が強い。きっと歴史には苦しみの方が多かっただろうから、苦しみに見舞われていちいち死んでいたら人間という種はとうの昔に滅んでいただろう。

 何が言いたいかというと、渦中にいるときは意外と死なないのだ。もちろん、死ぬ人もいる。でもおそらく、死ぬことができない人の方がずっと多い。

 脳が「このままだと死んでしまう」と判断すると、苦しみをパンドラの箱に封じ込めるのではないかと思う。俗な比喩を使えば、客人が急に来るから寝室にモノを無造作に投げ入れるみたいな感じだ。渦中にいるときは、つねに、火事場の馬鹿力なのだ。

 けれど、パンドラの箱はいつか開かなければいけないし、モノを無造作に投げ入れた寝室も客人が帰ったら掃除しなければいけない。

 私の希死念慮が最も強かったのは、十年以上続いたいじめが収まった後。

 苦しみの先送りの代償を支払いながら、障害者として生きなければいけないことを突き付けられた時期だった。

 現実的には、「あの頃」ほど苦しいことは起こっていない。誰かに特別虐げられるとかいうことはない。

 ただ、べらぼうに苦しい。冷静に考えれば、精神力の借金を返済しているようなものなのだから当たり前なのだけれど。それでも主観的には、あの頃に我慢できたことが我慢できないわけだから、自分はなんて軟弱になったんだって失望もわいてくる。

 いざというときは自分しか頼りにならないと思いながら生きてきた私にとって、自分自身に失望するというのは耐えがたく苦しいことだった。


 もちろんあの地獄には二度と戻りたくないと思う。

 それでも、戦場よりも平和の方が苦しかったりするし、フラッシュバックはかなり減ったけれど、そう簡単に消えてはくれない。

 軽度のパニック障害はまだ治っていないし、フラッシュバックする過去の悪意には未だ慣れられない。悪意に反発することが無駄だと分かっていても、身構えてしまう。何度殴られても痛覚が消えないのと同じなのかもしれない。


 この文章を書いた意図は、二つぐらい。

 一つは、私はその「平和だけど、死にたい」って時期はだいぶ通り過ぎることができた。という再確認だ。

 それからもう一つは、まだ「平和だけど死にたい」と思っている人がいるかもしれない。そして「平和なのに死にたいと思ってしまうのは自分が軟弱だからだ」と思っている人がいるかもしれない。あるいは「平和なのに死にたいと思ってしまう理由」を他者に求めている人がいるかもしれない。それが解決できれば真の平和が訪れると思っているかもしれない。

 卑近なたとえ話をすれば「平和だけど、昔の悲しみが精算しきれていないから死にたい」というのは、「まともな収入はあるけど、借金を返済しなければいけないから生活が苦しい」みたいなもので、至って健全であること。そして、当たり前に起こることであること。

 これを読んでいるあなたがもし今「平和なのに死にたい」人なのだとしたら、それはあなたが戦場を生き延びた人だからなのだと思う。

 有体な言葉ではあるけれども、拾った命を大切にしてほしいと思う。人生は、続いていく。苦しみは一度では終わらない。けれど、生き方を少しずつこなれさせることはできるし、苦しみだって「あー、これってそう簡単に終わらないやつなんだ」と思いさえすれば、共存できないわけじゃない。

 何より、戦場を生き延びたあなた自身の頑張りを、ふいにしてほしくない。私自身も、これから苦しいこともあるだろうけれど、今まで必死に足掻いてきた努力をふいにしないように気を付けようと思う。

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