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[下調べ]言霊信仰 9 伎楽

 妓楽は、獅子舞と覚えました。
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~Wikipediaより~
伎楽
伎楽(ぎがく)は、日本の伝統演劇のひとつ。日本書紀によれば、推古天皇20年(612年)、推古天皇の時代に✳1百済人味摩之(みまし)によって中国南部の呉から伝えられたという。奈良時代の大仏開眼供養(天平勝宝4年(752年))でも上演され、正倉院には、その時使用されたと思われる伎楽面が残されている。行道という一種のパレードと、滑稽味をおびた無言劇で構成され、飛鳥時代から奈良時代に寺院の法会でさかんに上演されたが、次第に衰退した。

伎楽の歴史 
伎楽は「呉楽(くれがく)」「伎楽儛(くれのうたまい)」ともいわれるように、中国南部の仏教文化圏であった呉国に由来する楽舞であった。そのルーツについては中国南部、西域、ギリシャ、インド、インドシナなど諸説ある。

「伎楽」の文字が日本の文献に初めて登場するのは、『日本書紀』欽明天皇(在位 540年~572年)の項においてである。呉国の国王の血をひく✳2和薬使主(やまとくすしのおみ)が、仏典や仏像とともに「伎楽調度一具」を献上したという記述がある。ただしこのとき、実際の演技として伎楽が上演されたかどうかは不明。『日本書紀』の推古天皇20年(612年)5月、百済人味摩之(みまし)が伎楽儛を伝え、奈良の桜井に少年を集めて教習したという記事が、実際に日本で伎楽が行われた記録としては最古である。

聖徳太子の奨励などによって伎楽は寺院楽としてその地位を高めた。伎楽の教習者には課税免除の措置がとられるなど、官の保護もあった。『延喜式』によると法隆寺をはじめ、大安寺、東大寺、西大寺などに伎楽を上演する一団がおかれていた。4月8日の仏生会、7月15日の伎楽会と、少なくとも年2回の上演があった。また天武天皇14年(685年)には、筑紫で外国の賓客を供応するため伎楽が行われた。このように伎楽は仏教行事以外の場でも上演されている。

東大寺の大仏開眼供養(西暦752年/天平勝宝4年)の時には他の諸芸能とともに大規模に上演された。奈良時代にさかんに行われていた伎楽も平安時代を経て鎌倉時代になると次第に上演されなくなった。しかし現在でも「獅子舞」や、各地の寺院で行われる「お練供養」にその痕跡をとどめている。

昭和55年(1980年)、東大寺大仏殿昭和大修理落慶法要を飾る一大プロジェクトとして、その一部が復元された。復元作業にあたっては、現存する資料を元に、宮内庁楽部楽師・芝祐靖(復曲)、NHKプロデューサー・堀田謹吾(企画)、元宮内庁楽部楽長であり小野雅楽会会長であった東儀和太郎(振り付け)、東京芸術大学教授・小泉文夫(監修)、並びに、大阪芸術大学教授・吉岡常雄(装束制作)らの尽力によって現実。演技は天理大学雅楽部が担当した。以降、天理大学雅楽部は『教訓抄』記載の伎楽の復元試作を続け、復曲は引き続き芝祐靖が当たった。なお、同部は、平成4年(1992年)からは薬師寺において、創作伎楽『三蔵法師』にも取り組んでいる。そのほか、1980年代ごろから「真伎楽」という形での復興もおこなわれ、奈良の寺院などで上演されている。

伎楽の上演様態 
奈良時代に仏教寺院で行われていた伎楽は、次のような上演様態をもつ。

まず行道とよばれる一種のパレードが行われる。これは読経をともない仏を賛美するものと考えられる。このパレードは「治道(ちどう)」とよばれる鼻の高い天狗のような仮面をつけた者が先導する。次に笛、鼓などの楽器で構成される前奏の楽隊、音声という声楽のパート、さらに獅子、踊物、そして後奏の楽隊、帽冠(ほうこ)とよばれる僧がつきしたがう。

一行が、しつらえられた演技の場に到着すると、獅子舞がはじまる。これは演技の場を踏み鎮める役割をはたす。次に呉王、金剛、✳3迦楼羅(かるら)、呉女、✳4崑崙(くろん)、力士、波羅門(ばらもん)、大孤(たいこ)、酔胡(すいこ)という登場人物によって劇的展開をもつ演技がはじまる。この演技はすべて仮面をつけておこなわれ、無言のパントマイムと舞で構成される。また管楽器や打楽器による伴奏がつく。

呉王、金剛による登場の舞に続いて、霊鳥である迦楼羅が蛇を食べるテンポの速い舞、崑崙が呉女に卑猥な動作で言い寄り力士にこらしめられる演技、波羅門が褌をぬいで洗う所作、大孤という老人が仏に礼拝する演技、酔胡(酒に酔った胡の王)とその従者(酔胡従)による滑稽な演技がおこなわれた。

崑崙はマラカタとよばれる男性器を誇張したつくりものを扇でたたいて呉女に言い寄り、力士はそのマラカタに縄をかけて引っ張ったり、たたいたりする。色欲を戒める意味をもたせて上演されたが、その所作は見物の爆笑をさそったと想像される。また酔胡の演技も酒に酔って権威をなくしてしまった王を描いており、おおらかな批判精神がみられる。しかしながら大孤の礼拝の所作は、仏教に対する敬虔さを表現しており、伎楽が喜劇的な要素をもちながら、寺院楽として用いられた理由がここにあるという説もある。

伎楽の影響 
大宝律令に定められた雅楽寮には伎楽師もおかれ、国家の保護がなされた。しかし一方で、国家保護のもとで伎楽の演者は居住地が定められるなどの制約も課せられた。また散楽との密接な関係もあったと思われる。伎楽は広く地方にも伝播していった形跡がみられる。国家保護と制約から解放されるにつれ、伎楽は様々に形を変えていった。

崑崙の✳5「マラフリ」や、波羅門の✳6「ムツキアラヒ(褌を洗う所作)」は、のちの猿楽にも受け継がれた。また伎楽の伴奏の多くは雅楽のレパートリーに取り入れられ、後世に残った。さらに先述のように各地の獅子舞のルーツも伎楽にあるとみてさしつかえない。伎楽そのものは鎌倉期に衰退したとされるが、伎楽が後世の芸能に及ぼした影響は大きい。
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✳1  味摩之(みまし、生没年不詳)は、百済からの渡来人。『日本書紀』に登場する7世紀初頭の楽人。『日本書紀』によれば、612年(推古天皇20年)に帰化したと言われており、呉(中国南部)で学んで、伎楽の舞を修得したという。『令集解』の『職員令』の項目によると、伎楽と腰鼓などは呉楽であるとされており、その舞は滑稽卑俗なものであったと言われている。桜井(豊浦寺のあったところ)に住居を与えられ、少年を集めて伎楽の舞を教えたとされる。真野首弟子・新漢済文がその舞を習い、伝承している。

✳2  和薬使主
善那(ぜんな?-?)飛鳥(あすか)時代の医師。6世紀,欽明(きんめい)天皇の時代に呉(中国)から渡来した知聡(ちそう)の子。孝徳天皇(在位645-654)の代に,はじめて牛酪(ぎゅうらく)(バター)を製して献じ,和薬使主(やまとのくすしのおみ)の氏姓をあたえられ,名を福常とあらためた。
【牛乳】より
また,チンギス・ハーンの兵士たちが乾燥乳を食物として携帯したとも伝えられる。日本では,大化改新のころ,福常(善那ともいう)が孝徳天皇に牛乳を献上し,天皇は善那に〈和薬使主〉の姓と〈乳長上〉の職を与えたという。その後,宮中で乳牛が飼われたこともあり,《延喜式》には諸国に〈蘇(そ)〉を作って献上させたことが記されている。

✳3迦楼羅(かるら)
○《〈梵〉garuḍaの音写。金翅鳥(こんじちょう)と訳す》
1 想像上の大鳥。翼は金色で、口から火を吐き、竜を好んで食う。天竜八部衆の一。密教では仏法を守護し衆生を救うために梵天(ぼんてん)が化したとする。
2 伎楽面の一。1に模したもの。鳥の形をして、口の先に小さな玉をくわえる。

○サンスクリット名はガルダgaruḍa。インドの神話に登場する鳥類の王で竜を常食するとされる。金翅鳥(こんじちよう),妙翅鳥と漢訳されたものと同一視されている。大乗仏教では八部衆の一つに数えられている。密教においては梵天や大自在天の化身,あるいは文殊菩薩の化身といわれ,風雨を止めるための修法である迦楼羅法の本尊とされるが,単独で造像された作例はのこっていない。形像は鳥頭人身で,胎蔵界曼荼羅に表される。

○①仏典にみえる想像上の大鳥。金色で鷲わしに似ていて、口から火を吐き、竜を取って食うとされる。仏教を守護する天竜八部衆の一。密教では、衆生を救うために梵天が化した姿とする。がるら。 → ガルーダ
②伎楽面ぎがくめんの一。① を模したもの。口先に玉をくわえた鳥の面。 → 伎楽面

○インド神話上の架空の鳥。サンスクリット語のガルダgaruaの音写。拏(がろだ)、迦留羅(かるら)、掲路荼(がろだ)などとも書く。またガルダと同視される神話的な鳥スパルニンsuparin(金翅(こんじ)鳥、妙翅(みょうし)鳥)の訳でもある。鳥類の王で四天下の大樹におり、竜(りゅう)を食う獰猛(どうもう)な大怪鳥であるという。大乗の経典のなかでは、仏法を守護する天竜八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)の一とされる。密教では大梵天(ぼんてん)、大自在天(じざいてん)の化身、または文殊(もんじゅ)の化身とされ、胎蔵界曼荼羅外金剛部(たいぞうかいまんだらげこんごうぶ)に位する。[伊藤瑞叡]

○〘名〙① (「がるら」とも) (garuḍa の音訳。「食吐悲苦声」と漢訳す) 仏語。仏教の経典中にみえる一種の大鳥。両翼をのばすと三三六万里あり、金色で、口から火を吐き龍を取って食うとする。金翅鳥(こんじちょう)。密教では、仏法を守護し、衆生を救うために梵天(ぼんてん)が化したという。迦楼荼(かるだ)。
※法華義疏(7C前)序品「迦楼羅者。是金翅鳥」
② 伎楽面の一つ。①に模したもの。鳥の形をして、口の先に玉をくわえている。
※法隆寺伽藍縁起并流記資財帳‐天平一九年(747)「伎楽壱拾壱具〈略〉迦楼羅壱面 衣服具」
【八部衆】より…非天と訳されることもある。(6)迦楼羅(ガルダgaruḍa) 鷲が神格化されたもの。金翅鳥(こんじちよう)とも訳され,竜のライバル。


✳4 崑崙(こんろん、クンルン)とは、中国古代の伝説上の山岳。崑崙山(こんろんさん、クンルンシャン)・崑崙丘・崑崙虚ともいう。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母がいるとされた。仙界とも呼ばれ、八仙がいるとされる。

崑崙奴(こんろんど)とは、アフリカ系黒人に対しての呼び名であるが、伎楽の崑崙(くろん)面の名称も、そもそもは黒人のことをさした。

✳5
崑崙の「マラフリ」
伎楽の力士。仏法守護の金剛力士に扮し、白衣を着け桙を持って舞う。マラフリ舞。伎楽は呉(くれ)楽ともいう(職員令集解)。古代チベット・インドの仮面劇が中国に伝わり、江南地方・呉(ご)国の楽といわれる。612(推古20)年に百済人・味摩之(みまし)により伝えられたというが(推古紀)、異説も。諧謔的な仕草を伴う楽であったらしい。仏教と共に伝わった伎楽は、仏教儀式に不可欠なものとして寺社などで上演され、2007年の正倉院の獅子面復元により「東大寺」「□□□宝四年四月九」「基永師作」の墨書が発見され、752(天平勝宝4)年の東大寺大仏開眼会の際に使用されたことが明らかとなった。奈良時代に盛んに演じられたが(『延喜式』「雅楽寮」)、中世に衰退。南都諸寺等の資財帳によれば、一具の伎楽面は14種・23面で構成されていたといわれる。『教訓抄(きょうくんしょう)』によると、力士は、崑崙(こんろん)が唐風の美女として表される呉女(ごじょ)に懸想し追い掛け回していたところを懲らしめ、縄で絡め取った。呉女を追う崑崙の男根を力士が桙で落とし、それを振って舞うさまを白鷺の飛ぶ様から連想している、と解説される。

✳6波羅門の「ムツキアラヒ(褌を洗う所作)」
波羅門とはインドにおける最上位の階級である僧侶のことである。暗朱色に塗られた、大柄の眼鼻立ちをもつ面である。目付きがきつく、しわが多い。波羅門と名付けられているが、治道ではないかとする説もある。鼻の上部には、大きな穴があいている。
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 妓楽は雅楽や猿楽に溶け込んでいるようです。

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