見出し画像

[下調べ]言霊信仰 1万葉集

「神代より 言ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 大和の国は 皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり」山上憶良(660年~733年)

「言霊の八十(やそ)の衢(ちまた)に夕占(ゆふけ)問ふ占(うら)正に告(の)る妹(いも)相寄らむと」作者未詳の恋歌

「磯城島(しきしま)の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ」柿本人麿(660年~724年)歌集

 特に憶良が大和は皇神の威厳を示す国であり、言霊の幸わう国なので無事に唐から帰国できるのだといい、人麿歌集では敷島の大和の国は言霊が助ける国だというのは、言霊が大和という国と深く関与していることを示している。この点から見ると、言霊は皇神(スメ神)により管理されている言語精霊であり、言霊が幸わい、言霊が助けるというのは、スメ神の祝福による海路の安全や国家の安寧を意味するといえる。それは国や土地の安寧を守護する、スメ神と呼ばれる神が巫祝に憑依して発せられる言語活動であると思われる。そうした国家守護のスメ神の祝福の言葉が言霊であり、一般の人間の言葉に言霊が存在するものではない。それゆえ恋歌においても言霊が活動するのは、「八十の衢(ちまた)」という四方八達の特別な交通路であったのである。この交通路においても人々の発する言葉がスメ神の言霊として捉えられ、それが占いをする者には神の意志として受け取られたのである。

~Wikipediaより~
⚪万葉集(萬葉集)は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である。

⚪万葉集の和歌はすべて漢字で書かれている(万葉仮名を含む)。

⚪全20巻4500首以上の和歌が収められており、3つのジャンルに分かれる。「雑歌(ぞうか)」宴や旅行での歌、「相聞歌(そうもんか)」男女の恋の歌、「挽歌(ばんか)」人の死に関する歌。

⚪和歌の表現技法には、枕詞、序詞、反復、対句などが用いられている。

⚪天皇、貴族から下級官人、防人(防人の歌)、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2100首以上ある。

⚪7世紀前半から759年までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年頃にかけてとみられ、編纂には大伴家持(718年~785年)が何らかの形で関わったとされる。

⚪原本は存在せず、現存する最古の写本は11世紀後半ごろの桂本万葉集(巻4の一部のみ)、完本では鎌倉時代後期と推定される西本願寺本万葉集が最も古い。

⚪和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており(一例「菟原処女の伝説」)、日本文学における第一級の史料であるが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても重要な史料である。

⚪研究者の間で主流になっているのは、『古事記』の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である。

⚪『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。

⚪延暦2年(783年)頃に大伴家持(718年~785年)の手により完成したとされている。ただし、この『万葉集』は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年)以降にようやく完成したのではないか、と推測されている。「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。この理由については「延暦4年の事件で家持の家財が没収された。そのなかに家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになった」とする説などがある。

⚪歌を作った時期により4期に分けられる。

 第1期は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。代表的な歌人としては額田王がよく知られている。ほかに舒明天皇・天智天皇・有間皇子・鏡王女・藤原鎌足らの歌もある。

 第2期は、平城京遷都(710年)までで、代表は、柿本人麻呂・高市黒人(たけちのくろひと)・長意貴麻呂(ながのおきまろ)である。他には天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子などである。

 第3期は、733年までで、個性的な歌が生み出された時期である。代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良、伝説のなかに本来の姿を見出す高橋虫麻呂、女性の哀感を歌にした坂上郎女などである。

 第4期は、759年までで、代表歌人は大伴家持・笠郎女・大伴坂上郎女・橘諸兄・中臣宅守・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)・湯原王などである。

 歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代と共に拡大されていったと考えられる。

⚪編纂された頃にはまだ仮名文字は作られていなかったので、万葉仮名とよばれる独特の表記法を用いた。つまり、漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。その意味では、万葉仮名は、漢字を用いながらも、日本人による日本人のための最初の文字であったと言えよう。

[時代背景]
~Wikipedia: https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7
天皇(125代)の歴史 山本博文監修 かみゆ歴史編集部編著より~

507年~531年在位……第26代 継体天皇 (第15代応神天皇5世の孫)
                養蚕や農業の振興に尽力
       筑紫の磐井を物部麁鹿火(あらかひ)に命じ鎮圧
531年~535年在位……第27代 安閑天皇
    各地に屯倉(みやけ)を設置 
    五穀豊穣で民が飢えることもなくなる
535年~539年在位……第28代 宣化天皇
    大伴金村、物部麁鹿火、蘇我稲目宿禰を大臣とした
538年  百済の聖王、仏像及び経綸を献ず(儒教伝来、仏教公伝)
    (日本書紀552年諸説有)
539年~571年在位……第29代 欽明天皇
540年  伽耶(任那みまな)問題で大伴金村失脚
552年  蘇我稲目と物部尾輿が崇仏争論を展開  
562年  伽耶(任那)の日本府が新羅に滅ぼされる
    新羅人(帰化人)の来航
572年~585年在位……第30代 敏達天皇(びだつ天皇)
    物部守屋らが仏像を破棄
    (疫病流行を仏教擁護のせいとし敏達天皇の許可を得る)
585年  疱瘡で死者が増え、敏達天皇が疱瘡にかかり崩御
585年~587年在位……第31代 用明天皇(厩戸王の父)
    即位2年で病に伏し仏教への帰依を願うようになる
587年  丁未(ていび)の変により蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす
587年~592年在位……第32代 崇峻天皇
592年  蘇我馬子との軋轢が生じ崇峻天皇が暗殺される
593年~628年在位……第33代 推古天皇(女帝)
593年~622年  聖徳太子の摂政
593年  四天王寺造立
600年  史料上初の遣隋使派遣(隋書より)
603年  冠位十二階を制定
604年  十七条憲法を制定
607年  小野妹子を隋に遣わす・法隆寺の創建
615年頃 聖徳太子の法華義疏(書物)
  [万葉集 第一期 舒明天皇即位(629年)〜壬申の乱(672年)]
629年~641年在位……第34代 舒明天皇
      (中大兄皇子:天智天皇と大海人皇子:天武天皇の父)
642年~645年在位……第35代 ✳1皇極天皇(女帝)

645年 乙巳(いつし)の変
645年~654年在位……第36代 孝徳天皇
646年 (大化2年) 改新の詔
    政治の実権は中大兄皇子が握る
655年~661年在位……第37代 ✳1斉明天皇(女帝)
663年  白村江(はくそんこう)の戦い
668年~671年在位……第38代 天智天皇
    
飛鳥より内陸の近江に都を遷し各地に山城を築く
668年  高句麗が唐・新羅に滅ぼされる・高句麗人渡来
   (高麗神社)
671年~672年在位……第39代 弘文天皇
672年 壬申の乱・弘文天皇25才若くして自害
     [万葉集 第二期 壬申の乱〜平城京遷都(710年)]
673年  飛鳥京に遷都する
673年~686年在位……第40代 天武天皇
                日本書紀、古事記の編纂を発意
683年頃  富本銭を鋳造する
684年  八色の姓を制定する
    初めて「天皇」の称号や「日本」の国号を使用
    (天皇と皇族を主体とする皇親政治を行う)
    白鳳地震
    (諸国で官舎・民家が倒壊、土佐で田畑が海没、大津波)
690年~697年在位……第41代 持統天皇(女帝)
694年  藤原京に遷都する
697年  持統天皇が文武天皇に位を譲り初の上皇となる
697年~707年在位……第42代 文武天皇
701年(大宝元年) 倭国、国号を日本に改める・大宝律令の成立
707年~715年在位……第43代 元明天皇(女帝)
708年(和銅元年) 銀銭及び銅銭を鋳造する(和同開珎)
710年 平城京遷都 
  [万葉集 第三期 平城京遷都〜天平五年(733年)]
712年  稗田阿礼、 太安万侶(おおのやすまろ)の古事記
             (歴史書:天地開闢~推古天皇)
715年~724年在位……第44代 元正天皇(女帝)
718年 (養老2年) 養老律令の成立(実施は757年から)
720年  舎人親王(とねりしんのう)らの日本書紀
    (歴史書:神代~持統天皇)
    行基ら、僧侶による社会事業が諸国で行われる
723年  三世一身法を定める
724年~749年在位……第45代 聖武天皇
729年 長屋王の変
    聖武天皇の后に光明子(光明皇后)冊立 
  [万葉集 第四期 天平六年(734年)〜天平宝字三年(759年)]
734年 河内・大和地震が発生
735年~737年 天平の疫病大流行
 (天然痘の流行。当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる100万–150万人が感染により死亡したとされている。天然痘は735年に九州で発生したのち全国に広がる。)

740年 藤原広嗣の乱
741年  諸国に国分寺・国分尼寺を造らしむ(一説に738年)
743年  墾田永年私財法を定める
749年~758年在位……第46代 ✳2孝謙天皇(女帝)
751年  東大寺領墾田図(地図)
752年  東大寺大仏の開眼供養
754年  唐僧鑑真、来朝して律宗を伝える
757年     橘奈良麻呂の乱
758年~764年在位……第47代 淳仁天皇
759年頃 『万葉集』の成立
764年  藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)
       仲麻呂と親しかった淳仁天皇も捕らわれ淡路へ流される
  翌年、逃亡図るも捕らえられ翌日病死(殺害と推測) 
  (淡路廃帝)
764年~770年在位……第48代 ✳2称徳天皇(女帝)
765年  道鏡、太政大臣禅師となる
769年  宇佐八幡宮神託事件
770年  百万塔陀羅尼(印刷物)※現存する世界最古でもある
770年~781年在位……第49代 光仁天皇(天智天皇の孫)
  
皇后となった聖武天皇皇女の井上内親王(元斎王)は、光仁天皇を呪詛したとの陰謀に巻き込まれて子共々幽閉・殺害される
781年~806年在位…… 第50代 桓武天皇
782年 氷上川継の乱
784年 長岡京へ遷都
785年 早良親王を藤原種継の暗殺事件首謀者として
    淡路へ配流途中で憤死
  (その後皇族の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた)
788年 最澄、延暦寺を創建
794年 長岡京を廃し、平安京に遷都
801年 坂上田村麻呂、蝦夷を平定する
平安時代前期  竹取物語


 
 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?