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[下調べ]言霊信仰 4神楽と古神道

http://www.tohoku21.net/kagura/history/keihu_miko.html
巫女神楽

問1 能楽と✳①神楽って違うのかな?という疑問がわいてWikipediaを見てみました。
➡能楽が仏教と深く結びついていて男性より、神楽は自然信仰の神道で神の依り代となる女性よりなのだと分かりました。

問2 神楽は神に奉納する歌舞なのだから、仏教や儒教と結び付く前の✳②古神道と繋がっているのでは?と思い今度はWikipediaで古神道を見てみました。
➡古神道の祈祷として神楽がありました!
神楽(巫女の舞など)や太神楽(曲独楽・軽業)なども神に捧げ神を和ごませる儀礼としての祈祷である。

問3 古神道は古代氏族と結び付きが強いのだから、縄文人と繋がりがあるのでは?
➡自然崇拝の繋がりで受け継がれていると考えるならyesですが、古代氏族が縄文人だという証拠が見つけられませんでした。何せ始祖が古事記に出てくる天児屋根命や、ニギハヤヒノミコト、アメノウズメという神代の人達や、百済から来た王子とか、秦の始皇帝末裔や漢民族の末裔なので弥生人や渡来人の方がずっと近いです。
 弥生人と縄文人の流れも気になるし、都市伝説系だと神楽は縄文文化からの流れだと言われている方もいますが、私では証拠が確認できません。古墳時代の豪族や、縄文人として睨んでいるのが大山咋神なので調べてみたいです。そして大山咋神はスサノヲ系で出雲となりドンドン深みにはまっていきます。能楽からここまでになるとは…日本の根っこと土壌が知りたいのです。
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~Wikipediaより~
✳①神楽(かぐら)は、日本の神道の神事において神に奉納するため奏される歌舞。神社の祭礼などで見受けられ、まれに寺院でも行われる。平安中期に様式が完成したとされ、約90首の神楽歌が存在する。神楽は、神社に「神楽殿」がある場合、そこで行われる事が多い。

 一般に、「かぐら」の語源は「神座」(かむくら・かみくら)が転じたとされる。神座は「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味し、神座に神々を降ろし、巫・巫女が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流するなど神人一体の宴の場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったとされる。古事記・日本書紀の岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。アメノウズメの子孫とされる✳1猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びだったとも考えられる。

神楽は、宮中の御神楽(みかぐら)と、民間の里神楽(さとかぐら)に分けられる。また幾つかの神社では、近代に作られた神楽も行われている。

神楽殿 
神楽を舞うための施設を神楽殿(神楽堂、楽殿)という。舞楽専用の施設を舞殿として区別することがある。特に里神楽では様々な用途の舞台(演舞場、演武場、音楽堂)、ライブステージ、コンサート会場として利用されることもある。

御神楽
 
宮中の賢所で行われる御神楽(賢所御神楽)を指し、古くは内侍所御神楽と言われた。雅楽(国風歌舞)に含まれる。大嘗祭の清暑堂での琴歌神宴(神楽)、賀茂臨時祭の還立の神楽、園并韓神祭の神楽、石清水八幡宮臨時祭の神楽がもとになったという。1002年あるいは1005年から隔年で行われ、後に毎年の行事となった。

明治41年(1908年)の皇室祭祀令で「小祭」の一つと定められたが、1947年にその祭祀令は廃止となる。

現在も毎年12月中旬に、宮内庁式部職楽部によって、簡略化された御神楽が賢所で行われる。また、大嘗祭でも同様に行われる。

里神楽 
一般的に「神楽」と言われるもの。里神楽という語は御神楽と対比して用いられ、狭義では関東の民間の神楽を指す。芸能研究者の本田安次(1906-2001)がさらに下記4系統へ分類したが、各地の神楽にはこれらの要素が混合している場合があるなど、この分類では不都合もあるため近年里神楽の分類の見直しも考えられている

巫女神楽(神懸かり系・早乙女系)
巫女が舞う神楽。本来は神懸かりのための舞であったが様式化して、祈祷や奉納の舞となった。前者の特徴は順・逆に回って舞うことなどだが、現在では後者がほとんどである。鈴・扇・笹・榊・幣など依り代となる採物を持って舞う。

採物神楽(出雲流神楽)
出雲国・佐陀大社の御座替神事を源流とする。この神事(佐陀神能)は取り替えた御座を清めるための採物舞と、日本神話や神社縁起などを劇化した神能から成り、この出雲流神楽の流れを汲んで演劇性・娯楽性を高め、独自の変化を遂げた神楽が中国地方を中心として全国へ広がっている。

湯立神楽(伊勢流神楽)
湯立と神楽が結びついたもの。伊勢外宮の摂末社の神楽役たちが行ったものが各地へ広まったとされる。霜月神楽、花祭とも言われる。釜で湯を沸かし、巫女などが自身や周囲の人にその湯をかけて清める「湯立」に、採物または着面の神楽が加わる。

獅子神楽
獅子舞の一種。風流系とは異なり、獅子頭を神体として各地を巡って祈祷やお払いを行う。二系統あり、東北地方の山伏神楽と、伊勢などの太神楽がある。

太神楽
伊勢神宮や熱田神宮の神人が各地を巡って(回檀)、神札を配り、竃祓いや村の辻での悪魔祓いとして行った神楽。大神楽・代神楽とも。獅子舞と曲芸から成る。余興だった曲芸は舞台芸としての太神楽に発展、江戸太神楽や水戸大神楽となった。江戸末期からの寄席では神楽よりも演芸色の強い曲芸(ジャグリング)の方が多く演じられた。寄席での神楽は落語、講談とは違い色物とされることが多く太神楽曲芸と言う。
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✳1猿女君
猿女君(さるめのきみ・猨女君、猿女公)は、古代より朝廷の祭祀に携わってきたとされる一族。

概要 
天神・天宇受売命を始祖としており、君を姓に持つ氏族の一つともされるが、「君・公」は姓ではなく女性への尊称であり、また『新撰姓氏録』などに猿女君について何ら記録がないこと、女性を始祖とする具体的な氏族の存在が確認できないことなどから、実際には猿女君という氏族は存在せず、女官の称号であったとする説もある。

日本神話において天宇受売命が岩戸隠れの際に岩戸の前で舞を舞ったという伝承から、鎮魂祭での演舞や大嘗祭における前行などを執り行った猿女を貢進した氏族とされる。この名前は、天宇受売命が天孫降臨の際に猿田毘古神と応対したことにより、猿田毘古神の名を残すために邇邇芸命より名づけられたものであると神話では説明している。実際には、「戯(さ)る女」の意味であると考えられている。

本拠地は伊勢国と想定されるが、一部は朝廷の祭祀を勤めるために、大和国添上郡稗田村(現在の奈良県大和郡山市稗田町)に本拠地を移し、✳2稗田氏を称した。

考証 
他の祭祀氏族が男性が祭祀に携わっていたのに対し、猿女君は女性、すなわち巫女として祭祀に携わっていた。それ故に他の祭祀氏族よりも勢力が弱く、弘仁年間には小野氏・和邇部氏が猿女君の養田を横取りし、自分の子女を猿女君として貢進したということもあったともされる。

✳2稗田氏(ひえだし)は、日本の氏族。
古代氏族としての稗田氏 『弘仁私記』に天鈿女命の子孫と見え、『西宮記』から猿女君を輩出する氏族の一つであったと見られるが、その系図、家系共に不明なことが多く、『新撰姓氏録』などにその存在が確認できない。また中臣勝海の子孫にも稗田氏が見られる。

猿女君の本拠地は伊勢国と想定されるが、一族の一部が朝廷の祭祀を勤めるために、大和国添上郡稗田村(現在の奈良県大和郡山市稗田町)に本拠地を移し、稗田姓を称したという。各種史書に姓に関する記載がないことから無姓と考えられる。氏人に『古事記』の編纂に語り部として参加した稗田阿礼がいる。

その他の稗田氏 
那須氏族 
下野国監屋郡稗田郷が発祥。那須資隆の子・那須朝隆が稗田九郎を称したという系図がある。

備前の稗田氏 
由加山蓮台寺(岡山県倉敷市児島由加)には、桓武天皇の時代に、阿久良王(阿久羅王、阿黒羅王)と名乗る頭領とその妻、そして東郷太郎・加茂二郎・稗田三郎(西郷三郎)が、由加山を根城にし民を苦しめ聖域を犯していたが、その噂を聞いた天皇が征夷大将軍坂上田村麻呂を派遣し、戦勝を祈願して金甲山に金の甲を埋め、阿久良王らを退治したという伝承がある。
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✳②古神道(こしんとう)とは、

日本において外来宗教の影響を受ける以前に存在していたとされる宗教をいう。純神道、原始神道、神祇信仰ともいう。通常はこちらを古神道という。

江戸時代の復古神道の略称。
江戸時代の復古神道の流れを汲み、幕末から明治にかけて成立した神道系新宗教運動。仏教、儒教、道教、渡来以前の日本の宗教を理想としている。神道天行居や出雲大社教、神理教、古神道仙法教などの教団が存在している。大本などに影響を与えた。

概要 
外来の影響を受ける以前という意味での古神道とは「原始宗教の一つである」ともされ、世界各地で人が社会を持った太古の昔から自然発生的に生まれたものと、その様相はおしなべて同様である。その要素は、自然崇拝・精霊崇拝などのアニミズム、またはその延長線上にある先祖崇拝としての命・御魂・霊・神などの不可知な物質ではない生命の本質としての✳1マナの概念や、常世(とこよ・神や悪いものが住む)と現世(うつしよ・人の国や現実世界)からなる世界観と、禁足地や神域の存在と、それぞれを隔てる端境とその往来を妨げる結界や、祈祷・占い(シャーマニズム)による祈願祈念とその結果による政(まつりごと)の指針、国の創世と人の創世の神話の発生があげられる。民俗学などで提唱された。

江戸時代に発達した復古神道の流れの国学において、古神道という概念が初めて提示された。当初の定義では「記紀などの古典に根拠を置き儒仏の要素を混じえない神道」が古神道、「記紀などの古典に根拠を置かず儒仏思想を混じえた神道」が俗神道であるとされ、古神道と俗神道が対概念であった。

近代以降、歴史学において仏教伝来以前の神道を純神道と呼んだが、その後、おもに人類学のほうから原始神道という呼び方がされるようになった。これは原始キリスト教や原始仏教などという用語に倣ったもので、より学問的で中立的な表現とされた。

しかしさらに後、神道という枠組み自体が仏教や儒教と対抗的に歴史的に形成されたものであるという説に依拠して、現在のいわゆる神道の実体または核心が儒仏以前に遡るという発想には疑問がもたれ、新たに神祇信仰(または神祇崇拝)という言い方がされるようになった。これは古代の特定の民族の宗教でありながら特定の名称をもたない多神教が、例えば「古代ギリシア人の宗教」とか「古代エジプト人の宗教」などと呼ばれていることに準拠した表現でもある。

以上の用語はほぼ同義であるが、しいていえば微妙なニュアンスの差異がある。それは、古神道という用語は、純粋に学問的な手法による研究にしろ、宗教的または神秘主義的な手法にしろ、ある一定の体系だった世界観がかつて存在し、かつそれが本来の神道であったという予感のようなものを前提としており、これに対して神祇信仰という用語は、かつて存在したのはいわゆる神道と呼ばれるべきものとは別であったことが学問的な研究の結果わかるはずという信念を前提としている。これらに対して原始神道は、不可知論または未知の立場である。むろんこれらは微妙なニュアンスの問題で、実際にはほぼ同義の言葉である。

仏教でいう根本仏教・原始仏教・初期仏教という言葉の差異にあてはめると、古神道が根本仏教、原始神道が原始仏教、純神道が初期仏教のニュアンスにそれぞれ近く、神祇信仰に該当する仏教の言葉はない。また通俗書などでは「縄文神道」という言葉もみられるが、かなり意味が狭く限定されてしまうのと、学問の進歩とともに縄文のイメージが変化していくため恣意的なニュアンスを賦与されがちであり、専門用語として熟した言葉ではない。

自然崇拝 
日本民俗学では、太陽から来るマナを享受し、それを共有する存在をライフ・インデックスとして崇拝する自然崇拝は神籬・磐座信仰として現在にも残るとされ、具体的には、神社の「社(やしろ)」とは別に境内にある注連縄が飾られた御神木や霊石があり、また、境内に限らずその周囲の「鎮守の森」や、海上の「夫婦岩」などの巨石などが馴染み深いものである。また、雷を五穀豊穣をもたらすものとして「稲妻」と呼んだり、クジラは日本においては、座礁や漂着などして現れた貴重な食料として、感謝の気持ちを込めて「えびす」と呼んだりして、各地に寄り神信仰が生まれた。また、「野生の状態で生き物として存在するマナ」として捉えられるシャチやミチ(アシカ)なども、畏き(かしこき)者として恐れ敬われた。

自然や幸せに起因するものだけでなく、九十九神にみられるように、生き物や人工物である道具でも、長く生きたものや、長く使われたものなどにも神が宿ると考えた。そして、侵略してきた敵や、人の食料として命を落としたものにも命や神が宿る(神さぶ)と考え、蒙古塚・刀塚や魚塚・鯨塚などがあり、祀られている。

異界観 
自然に存在する依り代としての岩や山、海や川などは神の宿る場所でもあるが、常世と現世との端境であり、神籬の籬は垣という意味で境であり、磐座は磐境ともいい、神域の境界を示すものである。実際に、島に森林を含めた全体を神の領域とする「禁足地」である宗像大社、「沖ノ島」のような場所もあり、その考えは神社神道の建築様式の中などにも引き継がれているが、例えば、本来は参道の真ん中は神の道で禁足となっている。

一般家庭にも結界はあり、正月の注連縄飾りや節分の柊鰯なども招来したい神と招かれざる神を選別するためのものでもある。また、集落などをつなぐ道の「辻」には石作りの道祖神や祠や地蔵があるが、旅や道すがらの安全だけでなく、集落に禍や厄災を持ち込まないための結界の意味がある。

世界観 
古来からの古神道は後から意味付けされたものも多く、その対象も森羅万象におよぶので、共通の概念や用語をとりまとめるのは難しいが、古神道に始まり、現在への神道までの流れとして時系列や、漢字や日本語としての古語の意味などを考え、記述する。

神世(かみよ)現世と常世のすべて。
とこよ(常世・常夜)
うつしよ(現世)

尊(みこと) - 日本神話にある人格神(人と同じ姿形、人と同じ心を持つ神)
御霊(みたま) - 尊以外の神。個々の魂が寄り集まったものとしての神霊の形。
魂(たましい)・御魂(みたま) - 個々の人の命や人の心の態様。神の心の態様。
荒御魂(あらみたま) - 荒ぶる神のこと。
和御魂(にぎみたま) - 神和ぎ(かんなぎ)といわれる安寧なる神のこと。四魂
神代・上代(かみよ・かみしろ) - 現世における神の存在する場所を指す。日本神話の神武天皇までの、現世にも神が君臨した時代を指すときは上代もしくは神世(かみよ)である。
神体(しんたい) - 古来からあり、神が常にいる場所や神そのものの体や、比較的大きい伝統的な神の宿る場所やもの。
神奈備(かんなび・かむなび・かみなび) - 神名備・神南備・神名火・甘南備とも表記し、神が鎮座する山や神が隠れ住まう森を意味する。
磐座(いわくら) - 神が鎮座する岩や山。なお、磐境(いわさか)とは神域や常世との端境である岩や山を指す。
神籬(ひもろぎ) - 神が隠れ住む森や木々、または神域や常世との端境。現在では神社神道における儀式としての神の依り代となる枝葉のこと。
御霊代(みたましろ)依り代(よりしろ) - 代(しろ)とは代わりであり、上記のほか神が一時的に降りる(宿る)憑依体としての森羅万象を対象とした場所や物を指す。
巫(ふ・かんなぎ) - 神降ろしのことで、神の依り代となる人(神の人への憑依)を指す。

先祖崇拝 
「お盆」といわれるものはそのしきたりや形式は古神道の先祖崇拝であるが、仏教伝来以来の神仏習合の影響により、寺で行われ僧が執り行うことなっているため、一般に仏教行事として認識されており、古神道としての側面が曖昧になっている。仏教は本来、輪廻転生し徳を積めば最後は開眼し仏となる教えであり、「特定される個人としての死」はないので先祖崇拝はなく、「盂蘭盆」が正式な仏教行事で釈迦を奉るものである。現在では、特定の仏教宗派に属さなければ、盂蘭盆に触れる機会は少ないことも、「お盆は仏教行事という認識」につながっている。吉野裕子によれば、盆即ち申の月と、寅の月つまり正月を祝う風習は、中国からの影響もあるが日本独特のものであるという。また、民俗学者の柳田國男によれば、日本では古来「窪んだ物、カプセル状の物、ぴらぴらしたもの」に魂がつくとされ、お盆の名称も、いわゆるトレイを「魂の寄るもの」として使ったための呼称ではないかとする。

祈祷や占い 
祈祷や占いは現在の神社神道でも受け継がれ、古来そのままに亀甲占いを年始に行う神社もある。大正時代まで盛んであった祭り矢・祭り弓も日本の価値観や文化(目星を付ける・的を射る・射幸心)に影響を与え、その年の吉凶を占うことから、「矢取り」に選ばれた者は的場に足繁く通ったという。現在のおみくじも本来は神職による祈祷と占いを簡素化したものであり、柳田國男によれば「正月に行う、花札や百人一首」なども、占いの零落したものである。

また、巫女の舞や庶民や芸能の芸として現在に受け継がれる「神事としての興行(相撲)」や舞(纏舞い・獅子舞)や神楽(巫女の舞など)や太神楽(曲独楽・軽業)なども神に捧げ神を和ごませる儀礼としての祈祷である。

歴史  祭政一致 
まつりごとは「まつりの式次第を主催する」の意であり、その祭りに従うことが「まつろふ」である。従って、✳2物部氏が、元来軍事、政治を担当したと考えられ、「貴人にマナをつける」職掌だったとする谷川健一説や、折口信夫の『水の女』で展開する「ふぢはら」は淵原であり、中臣氏が、元「貴人を洗い清め、特殊な方法で絆を締めて尊いものにした」シャーマン的な存在であったとする説も成立しうる。また古くは卑弥呼なども祈祷師であり、その祈祷や占いから「国の行く末」を決めていたといわれる。神社神道の神主などの神職は古くから政(まつりごと)の執政をし、平安時代には道教の陰陽五行思想を取り込むことによって陰陽師という組織とその政治における官僚としての役職を得た。そして、占いや祈祷により指針を定め、国政を司った。この流れは戦国時代以降は潜むが、公家の間では政として、あるいは神社神道として残っていった。

地域振興の中心は、古くは寺社であり、その中心にある神社が興行や縁日や神事を行い、「寺社✳普請(ふしん:土木・建築の工事)」だけでなく地域の社会基盤整備としての普請にもなった。そして、民間でも自治としての政が江戸時代から一層顕著に認められ、祭りとして神や御霊や自然を祀り、その社会的行為は「七夕祭り」や「恵比寿講」として現在にも行われ、神社神道の儀式とは離れた民衆の神事として定着し、昔と同様に普請としての地域振興を担っている。

近現代の古神道 
江戸時代末期には、尊皇攘夷思想や平田国学の隆盛と連動して世に出た、古神道と称する思想や儀礼などが多くあるが、しかし、古神道が純粋な姿で伝えられていた当時の記録文書はなきに等しく、原始仏教と同様、実際には後世の資料などから、間接的に推理・類推される存在に過ぎないことも指摘されている。

明治時代以降、古神道は、国家神道が宗教ではなく国家儀礼であるとされたのに対し、「宗教」であることを強調されることとなった。この点は✳3黒住教をはじめとする幕末期以降の教派神道と共通しており、事実、教派神道系の教団には古神道を名乗るものが少なくない。

また篤胤以降の江戸国学が単なる国文学に傾斜するのに反発したり、近代の国家神道が宗教性を忌避して国民道徳へと変貌するのに飽きたらず、篤胤の研究範囲に内在していたスピリチュアリズムの部分を追求するなどした諸派は、その後秘教神道ともよばれ、その教義は神道霊学と称されるようになっていった。例外もあるがこれらの諸派も多くは古神道を標榜している。

現在においては、新宗教で古神道を名乗る宗派も、上記記述の宗派の流れを受け継いだものであって、江戸時代以前から存在していた神道の宗派とされるものには、そもそも、「古神道」とは称されていなかったものもある。伝統的な古神道では✳4平田篤胤ほかが学頭を務めた皇室神道の✳5伯家神道から受け継いた儀礼や行法がみられるが、この系統ではない出雲神道(出雲大社教)、巫部神道(✳6神理教)、✳7九鬼神道、✳8修験道に由来する行法や教団も存在する。

✳1マナ 太平洋の島嶼で見られる原始的な宗教において、神秘的な力の源とされる概念である。人や物などに付着して特別な力を与えるとされるが、それ自体は実体性を持たない。元々は、✳9メラネシア語で「力」という意味である。

概要  マナは太平洋諸島地域で広く信仰されていた神聖な力の概念で、実体や人格性を持たないが物や人に憑いたり転移して、その所有者に超常的な影響を与えるとされる。例えば、マナが槍や漁網に憑けば所有者に戦勝や大漁をもたらし、病気・疲労などで衰弱した人に注入すれば回復治癒をもたらし、気象急変にもマナが関わっていると考えられていた。マナの概念を西洋社会に初めて紹介したのは、イギリス帝国の宣教師で人類学者のロバート・ヘンリー・コドリントン(1830-1922)が著した『メラネシア人』によってである。ノーフォーク諸島を中心とする東メラネシアに宣教師として着任した彼は、島の原住民が際立って早く進むカヌーを説明するとき「あのカヌーにはマナが宿っている」という言い方をすることから、マナという非人格的な力の観念が存在することを指摘した。著書『メラネシア人』の中で、コドリントンはマナについて以下の説明・定義づけをしている。

・メラネシアの人たちが信じるマナとは、「人間の通常の力を超越し、自然の共通法則の外側にあって、あらゆる事象に効果を及ぼすもの」である。
・マナは「物理的な力(power)とは全く区別される力(force)で、良いほうにも悪いほうにも全てに作用し、それを所有したりコントロールすることで最大限の優位性を得られるもの」である(二つの「力」の違いを日本語では訳せないため、それぞれpowerとforceの英語原文を記した)。

19世紀末は宗教起源に関する議論が西洋で盛んな時期でもあり、これが学会で発表されると、マナは原始宗教の本質を示すものだとして、従来のアニミズムやトーテミズムの起源説と並んで注目された。例えば、原始宗教における呪術儀式に着目したマルセル・モースは、著作『呪術論』の中で以下のように述べている。「マナは単に一つの力、存在であるのみならず、一つの作用、資質および状態である。換言すれば、この語は、名詞であると同時に形容詞、動詞でもある」「我々が妖術使いの力、ある事物の呪術的資質、呪術的事物、呪術的存在、呪術を持つ、まじないをかけられる、呪術的に作用する、といったような言葉で持って示している雑多な観念を包摂している」つまりマナは資質であり、実体であり、力である。クロード・レヴィ=ストロースによれば、「通常の能力・状態に宿る神秘的な付加要素」と規定されている。こうした原始宗教に関する論説は、やがて妖術・魔術研究(学問としての)者の目にも留まることになり、後年になってオカルト分野における魔法や超能力、霊力といった尋常ならざる特殊な力に関しても、マナの概念を流用して説明する者が現れるようになった。有名なイースター島のモアイの建造理由について、様々な説があるが、有力な説の一つは、マナを崇拝するものであったとするものである。

✳2物部氏 大和国山辺郡・河内国渋川郡あたりを本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前にヤマト入りをした饒速日命が祖先と伝わる天神系の神別氏族。穂積氏や采女氏とは同族の関係にある。饒速日命は登美夜毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。
 神武朝より大王家に仕えた氏族で、元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌していた氏族であったが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。既に雄略朝の頃には大連を輩出し、各地に国造を残すなど、有力な氏として活躍していたとされる。物部氏は解部を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、一説には盟神探湯の執行者ともなったとされる。 また、奈良県天理市街地周縁にある「石上・豊田古墳群」「杣之内古墳群」の被葬者は物部氏一族との関連が指摘されている。物部氏は528年継体天皇22年に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられた。これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。
蘇我氏との対立  宣化天皇の崩御後、欽明天皇の時代になると物部尾輿(生没年不詳)が大連になった。欽明天皇の時代百済から贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争った。稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋に代替わりした。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありながら、これを許可したが、このころから疫病が流行しだした。大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。こうした物部氏(守屋宗家)の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の用明天皇に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派であった。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後の587年5月21日(用明天皇2年4月9日)に用明天皇は崩御した(死因は天然痘とされる)。守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋の館に攻め込んだ。当初、守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した(丁未の乱)。同年9月9日に蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位し、以降守屋宗家の物部氏は没落する。しかし、後に石上氏が朝廷内で復権を果たし、また全国の物部氏系の国造は何事もなく続いた。
天武朝  684年、天武天皇による八色の姓の改革の時に、連の姓(かばね)から朝臣姓へ改めるものがあった。
石上氏 686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。大和国山辺郡石上郷付近を本拠にしていた集団と見られている。 石上はもと物部弓削守屋の弟である物部石上贄子が称していたが、のちに守屋の兄・物部大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある。石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある。
枝族・末裔  物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがない。長門守護の厚東氏、物部神社神主家の長田氏・金子氏(石見国造)、廣瀬大社神主家の曾禰氏の他、穂積氏、采女氏をはじめ、同族枝族が非常に多いことが特徴である。江戸幕府の幕臣・荻生徂徠は子孫といわれる。
東国の物部氏  石上氏ら中央の物部氏族とは別に、古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。扶桑略記、陸奥話記などには陸奥大目として物部長頼という人物が記載されている。いわゆる「古史古伝」のひとつである物部文書に拠ると出羽物部氏は物部守屋の子孫と称しているが証拠はない。一方で六国史に散見する俘囚への賜姓例の中には、吉弥候氏が物部斯波連を賜ったという記録も見える。ただし東国の物部君は彦狭島命の子・夏花命に始まる毛野氏の支流である。
下総物部氏  下総国匝瑳郡に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承に、布都久留 の子で木蓮子の弟の物部小事が坂東に進出し征圧したというものがある。また平安中期に作られた和名類聚抄には下総国千葉郡物部郷〈四街道市物井〉の記述があり、これらについては常陸国信太郡との関連を指摘する説があり、香取神宮と物部氏の関連も指摘されている。
尾張物部氏  古代尾張の東部に物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫であったと伝えられる高牟神社が残っている。
石見物部氏  石見国の一の宮「物部神社」(島根県大田市)は、部民設置地説以外に出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、社家の長田家・金子家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。金子家は、戦前は社家華族として男爵に列している。ただし石見国造は本来紀国造の支流である。
備前物部氏  岡山県には備前一宮として知られる石上布都御魂神社がある。縁起によると、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した「十握劒」(あるいは「韓鋤(からさひ)の剣)を山上の磐座に納めたのが始まりといわれる。江戸期には岡山藩の池田家から尊崇を受け「物部」姓への復姓を許されており、今の宮司も物部氏をついでいる。大和の石上神宮の本社ともいわれているが、神宮側は公認していない。
国造  先代旧事本紀巻十「国造本紀」には、以下の物部氏族国造があったという。上述の石見国造のように、古代史料には見えないが国造を私称するものも存在する。

✳3黒住教 岡山県岡山市にある今村宮の神官、黒住宗忠が江戸時代(文化11年11月11日・1814年)に開いた教派神道で、神道十三派の一つである。同じ江戸時代末期に開かれた天理教、金光教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。 現在の教主は七代目の黒住宗道が務める。
沿革  黒住宗忠は、安永9年(1780年)、備前国御野郡上中野村(現在の岡山市上中野)で、今村宮に仕える禰宜の家に生まれた。流行り病で父母を相次いで亡くした悲しみから、病に伏した宗忠は、文化11年(1814年)11月11日、冬至の日の出を拝む(日拝)中で天照太神と自分が一体となるとなるという体験をした。黒住教ではこれを「天命直授」と呼び、この日を立教の日としている。 この宗教的体験により宗忠は、病気治しや日常の心がけを説くなどの宗教活動を始めた。以後、嘉永3年(1850年)に死ぬまで、布教活動を行った。宗忠の死後、安政3年に吉田家より、「宗忠大明神」の神号を与えられ、文久2年に京都の神楽岡に宗忠神社が創建された。宗忠神社は慶応元年(西暦1865年)、孝明天皇によって勅願所となり、従四位下の神階を宣下された。明治9年(西暦1876年)、神道事務局から神道黒住派として独立した。平成28年(西暦2016年)、当代教主黒住宗晴が自身が満80歳を迎える平成29年(西暦2017年)9月18日に教主を退く意向を表明、黒住教協議会に於いて認められ、その旨が信徒に発表された。七代教主には副教主であった長男・宗道が就任。教主の生前継承は1814年の立教以来初めてのことで、宗晴は名誉教主に就いた。教団本部は岡山県岡山市北区尾上、神道山(しんとうざん)。(かつては同市同区大元の宗忠神社の隣接地に本部を構えていたが、市街地整備に伴い、昭和49年(西暦1974年)10月27日に神道山へ遷座)。
祭神  祭神は「天照大御神」「八百萬神」「教祖宗忠神」の3柱。
社会活動・その他  五代教主・宗和と六代教主・宗晴は川崎祐宣医師と親交が深く、川崎と共に学校法人川崎学園や社会福祉法人旭川荘の創立に関わっている。現当主の黒住宗晴は日本会議の代表会員である。塚田穂高によると、戦後一時は、黒住家から国政に候補者を立てていたことがあるという。伊勢神宮奉賛活動を通し伊勢神宮とは親しく神道山の本殿建築には遷宮時の旧内宮の古材を受け利用もしている。

✳4平田篤胤 平田 篤胤(ひらた あつたね、安永5年8月24日(1776年10月6日) - 天保14年閏9月11日(1843年11月2日))は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。成人後、備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。
復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。
生涯  秋田を出奔 安永5年8月24日(1776年10月6日)、出羽久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として秋田郡久保田城下の中谷地町(現在の秋田市中通4丁目)に生まれた。生家の大和田家は、朱子学を奉じ、国学や神道とは無縁であった。故郷を捨て江戸に出奔する20歳のときまでの事跡ははっきりしないが、現存する史料から不幸な幼少期がうかがわれる。諸書には久保田藩の医師で侍講でもあった中山菁莪の門下だったとあるものの、秋田時代の篤胤の経歴はほとんどすべて養子の平田銕胤の記述をもとにしているので、白紙にもどして検討する必要がある。ただし、自著『仙境異聞』(1822年)において「己は何ちふ因縁の生れなるらむ」と嘆いており、天保13年(1842年)11月2日の銕胤にあてた手紙には、「生れ落より父母の手には育てられず、二十になる正月の八日に、かねて五百文こしらひ置たる銭を以て書置をして欠落し江戸へ出たが」とあるので、貧しさのなかで捨て子同然の少年時代を送ったと考えられる。また、継母との折り合いがわるかったという見解もある。
 20歳になったばかりの寛政7年(1795年)1月8日に脱藩・出奔し、遺書して国許を去った。正月八日に家を出るものは再び故郷に帰らない、という言い伝えにちなんだという。江戸に出た篤胤は、大八車を引いたり、5代目市川團十郎の飯炊きや三助、火消しなど苦学しながら当時の最新の学問、とくに西洋の医学・地理学・天文学を学びつつ、旗本某氏の武家奉公人となった。寛政12年(1800年)、篤胤25歳のとき、勤め先で江戸在住の備中松山藩士で山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり、才覚を認められて、その養子となった。養子となったいきさつには様々な伝説があるが、詳細は不明である。このころ、駿河沼津藩士石橋常房の娘・織瀬と出会う。当時18歳前後であったろうと考えられる織瀬は旗本屋敷の奥勤めをしており、篤胤は同家のしがない奉公人であったが、やがて2人は深く愛し合うようになり、享和元年(1801年)篤胤26歳のとき、結婚した。
国学との出会い  上述のように、篤胤が江戸に出てきたのは必ずしも国学を学ぶためではなかった。その関心は広く、蘭学を吉田長淑に学び、解剖にも立ち合っている。他方、迫り来る対露危機に関しては、徹底した情報収集をおこなっている。篤胤が本居宣長の名前と著作を知ったのは、宣長没後2年経った享和3年(1803年)のことであった。妻の綾瀬が求めてきた宣長の本を読んで国学に目覚め、夢のなかで宣長より入門を許可されたとしており、「宣長没後の門人」を自称した。これは時代の流行語となった。文化2年(1805年)、篤胤は宣長の跡を継いだ長男の本居春庭に入門しており、夢中対面の話は春庭あて書簡に書かれている。篤胤は『直日霊』や『初山踏』『玉勝間』『古事記伝』など宣長の著作を読み、独学で本居派国学を学んでいった。篤胤の買い求めた『古事記伝』には、宣長門下服部中庸(なかつね)が著したダイヤグラム『三大考』が付録として付いていた。これは、10枚の図で「天・地・泉」の成り立ちを明示したものであり、のちに『霊能真柱』の著述におおいに活用されることになった。このころ、芝蘭堂の山村才助が西洋・東洋の地理書を渉猟した本格的な総合的地理書『訂正増訳采覧異言』(1802年成立)を著し、長崎の蘭学者志筑忠雄による『暦象新書』(1798年-1802年)ではニコラウス・コペルニクスの地動説やアイザック・ニュートンの万有引力が紹介されている。新知識に貪欲な篤胤は、両書より強い影響を受け、世界認識の再構築をせまられた。そこで出会ったのが、宣長の国学だったのである。漢意(からごころ)を排除し、文献学的・考証学的姿勢に徹する宣長の方法によって、それまで仏教的・儒教的に牽強付会もともなってさまざまに説明されてきた古代日本のありさまが、見事に解明されていることに篤胤は衝撃を受けた。しかし、後述のように宣長と篤胤では学問の内容・方法ともに大きな相違点がみられる。享和3年(1803年)、太宰春台『弁道書』を批判した処女作『呵妄書』を著し、翌文化元年(1804年)、「真菅乃屋」を号して自立した。書斎「真菅乃屋」は好学の人であれば、身分を問わず誰に対しても門戸がひらかれていた。以後、篤胤は膨大な量の著作を次々に発表していった。その著作は生涯で100におよぶ。篤胤の執筆する様子は、何日間も不眠不休で書きつづけ、疲れが限界に来たら机にむかったまま寝て、疲れがとれると、起きてまた書きつづけるというものだった。文化2年(1805年)から翌年『鬼神新論』『本教外編』などの論考を著述している。文化3年(1806年)より真菅乃屋では私塾として門人を取っている(のちに「気吹舎」に改称)。門人ははじめ3人であったが、最後には553人に達した。ほかに、篤胤没後の門人」と称した人が1,330人にのぼった。文化4年(1807年)以降は医業を兼ね、玄瑞と改めた。文化8年(1811年)頃までおこなった篤胤の講義は、門人筆記というかたちでまとめられ、『古道大意』『出定笑語』『西籍慨論』『志都の石屋(医道大意)』などの題名でのちに書籍として刊行されることとなるが、この時点では宣長の学説の影響が大きく、篤胤独自の見解はまだ充分にすがたをあらわしていない。文化8年10月、篤胤が駿河国府中の門人たちを訪れたとき、篤胤は今まで疑問に感じていたことを初めて口にした。すなわち、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』など、神代にまつわる「古伝(いにしえのつたえ)」がそれぞれの書籍のあいだで内容に差異があるのは何故なのか、従来は本居宣長『古事記伝』の説に従えばよいと考えていたが、他の諸書も参照して考慮し、正しい内容を確定すべきではないのか、ということである。門人たちもこれに賛成したところから、篤胤は門人で駿府の本屋、採選亭の主人柴崎直古の寓居に籠もり、諸書を集め、12月5日から年末までの25日間をかけて大部の書を一気に著述した。こうして成ったのが、『古事記』上巻・『日本書紀』神代巻の内容を再構成した『古史成文』であり、その編纂の根拠を記した『古史徴』であった。『霊能真柱』の草稿もこのとき成立している。
復古神道の成立 文化9年(1812年)、篤胤37歳のとき、相思相愛で結ばれた妻、織瀬を亡くした。篤胤は深い悲しみのなか「天地の 神はなきかも おはすかも この禍を 見つつますらむ」の歌を詠んだ。愛妻の死は、死後の霊や幽冥への関心を促し、本格的な幽界研究へとつながっていった。同年、綾瀬の死にあって篤胤は、幽冥界を論じた『霊能真柱(たまのみはしら)』を書き上げた。ここで、篤胤は従来はなかった彼独特の生死感を説いた。この書は、「霊の行方の安定(しづまり)を知」るならば、「大倭心(やまとごころ)を堅むべく」、大倭心が固められるならば「真道(まことのみち」を知ることができるという死後安心論の意図をもって著述された。すなわち、本居宣長が、人は死ねばその霊は汚き他界、つまり「夜見」(黄泉)の世界へゆくのであるから、人が死ぬことはじつに悲しいことであるとしたのに対し、篤胤は、人は生きては天皇が主宰する顕界(目に見える世界)の「御民(みたみ)」となり、死しては大国主神が主宰する「幽冥」(目には見えない世界、冥府)の神となって、それぞれの主宰者に仕えまつるのだから死後は必ずしも恐怖するものではないと説いたのである。そして、その「幽冥」とは、われわれが生きる顕界と同じ空間、山や森、墓といったわれわれの身近なところにあって、決して他界ではなく、幽冥界からはこちら側(顕界)が見えるものとし、こちら側から向こう側(「幽冥」)が見えないだけであるとしたのである。さらに、神はわれわれとはさほど遠くない「幽冥」の世界から顕界に生きるわれわれの生命と暮らし、郷土の平和と安寧をいつも見守り、加護してくれていると説いた。篤胤は、これを10個の図によって、開闢のはじめの混沌たる原質から天(太陽)・地(地球)・泉(月)から成る宇宙がいかにして生成されたかを、地動説的な解釈をほどこしつつ説明している。篤胤は、上述の服部中庸『三大考』に「産霊(むすび)の霊力」のはたらきを加え、そのうえで、天照大神が瓊瓊杵尊に命じて治めさせた「顕世(うつしよ)」と大国主命が治める「幽世(かくりよ)」を対比させ、すべては「顕明事(あらわごと)」と「幽冥事(かくりごと)」の2つによって均衡が保たれるのであって、これは大国主命がみずから退隠した勇気によって保証されていると説明し、このことによって死後の霊魂は心安らかに幽冥界に向かうことができるとした。篤胤が求めたのはこの世の幸福であり、関心をいだいたのは死後の霊の行方についてであった。その霊の安定を神道に求めたのであり、それゆえ、神道は従来以上に宗教色を強めたのである。ここで篤胤は、天主教(キリスト教)的天地創造神話と『旧約聖書』的な歴史展開を強く意識しながら、天御中主神を創造主とする、きわめて首尾一貫した、かつ儒教的・仏教的色彩を完全に排除した復古神道神学を樹立したのであった。篤胤によれば、天・地・泉の3つの世界の形成の事実、そしてそれについての神の功徳、それは「御国(みくに)」すなわち日本が四海の中心であり、天皇は万国の君主であるということを、国学を奉ずる学徒の大倭心の鎮として打ち立てた柱、それが「霊の真柱」なのであった。平田国学・復古神道が立論の根拠にしたのは古伝であったが、『古事記』などの古典に収載された古伝説には齟齬や矛盾、非合理がふくまれているため、篤胤は古伝説を主観的に再構成した自作の文章を注解するという手法を用いて論を展開した。また、古伝の空白箇所を埋めるために、天地開闢は万国共通であるはずだという理由から諸外国の古伝説にも視野を広げた。古伝説によって宇宙の生成という事実を解明し、幽冥界の事実を明らかにしていくのが彼の関心であるかぎり、これは自然なことであったが、漢意の排除と文献学的・考証学的手法の徹底を旨としてきた本居派からすれば、かれの手法は邪道であり、逸脱にほかならない。しかし、篤胤はそもそも古代研究を自己目的にしていたのではなかった。彼は、自身も含めた近世後期を生きる当時の日本人にとって神のあるべき姿と魂の行方を模索したのであり、そこで必要な神学を構築するためにこそ『古事記』『日本書紀』その他の古典および各社にのこる祝詞を利用したのである。『霊能真柱』は篤胤にとって分岐点ともいえる重要な書物だったが、本居派の門人達は、この著作の幽冥観についての論考が亡き宣長を冒涜するものとして憤慨し、篤胤を「✳山師(山を歩き回って鉱脈を見つけたり、立木の売買をしたりする職業の人。山師のように投機・冒険をする人。また、さぎ師。)」と非難したため、篤胤は伊勢松阪の鈴屋とはしだいに疎遠になっていった。

✳5伯家神道 (はっけしんとう)とは、花山天皇の子孫で神祇伯を世襲した白川家によって受け継がれた神道の一流派である。白川神道(しらかわしんとう)とも呼ばれる。
前史  律令制のもとで、神祇官の長官である神祇伯には、当初は大中臣氏が任ぜられ、後に藤原氏や源氏など他の氏族も任じられるようになった。花山天皇の皇子清仁親王の王子延信王は万寿2年(1025年)に源姓を賜り臣籍降下すると、永承元年(1046年)に神祇伯に任ぜられた。神祇伯は延信王の後、その子康資王、三条天皇の皇曾孫敦輔王、大中臣親定、村上源氏の源顕房の子顕仲、顕仲の甥顕重と補任された。康資王の孫の顕広王が永万元年(1165年)に神祇伯に任ぜられて以降、その子孫によって神祇伯は世襲されるようになり、後にこの家系は「白川家」や「伯家」、「白川伯王家」と呼ばれるようになった。室町時代後期になると、吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し神祇管領長上を称した。兼倶を輩出した吉田家は神祇官の次官である神祇大副を世襲していた家系だが、白川家の当主の忠富王は兼倶の指導を受けていた。
江戸時代  吉田家がその神道説を整理して教義を確立した一方で、白川家は鎌倉時代後期に一族に『日本書紀』を研究した者がいたものの、教義によって信仰を説くことはせず古来より朝廷に伝わる祭祀の作法を口伝により受け継いでいた。寛文5年(1665年)に発布された諸社禰宜神主法度ではその第三条にて無位の社人が白張以外の装束を着用する際には吉田家の裁許状を要する旨が規定され、これにより吉田家の支配下に入る神職が激増した。このような状況で白川家の当主の雅喬王は延宝8年(1680年)に家伝を整理し『家説略記』を著している。雅喬王はまた、白川家が皇室や摂関家に祭祀の作法を伝授してきたことを主張し吉田家との違いを鮮明にすることに努めた。雅喬王の子雅光王の代になると臼井雅胤が学頭に迎えられ雅胤は伯家神道の教義の確立に努めた。雅光王の2代後の雅富王は宝暦4年(1754年)に『家説略記』を改訂して『伯家部類』を著した。宝暦12年(1762年)には学頭の森昌胤が『神道通国弁義』を著した。その後、白川家は国学者の平田篤胤の協力を得て文化13年(1816年)に『神祇伯家学則』を編纂し、その中で神道はいずれの国においても大道であり、いつの時代にも変わることのない綱紀であると主張している。篤胤は天保11年(1840年)に学頭に迎えられた。 なお、俗に最後の学頭とされる高浜清七郎は白川家門人帳などの記録には学頭になった記載はなく、事実ではない。白川家門人帳に記載される正式な最後の学頭は平田銕胤である。なお、教派神道のうち禊教は天保9年(1838年)に、金光教は元治元年(1864年)にそれぞれ白川家から神拝式許状を受けている。
明治時代以降  明治維新を迎えると神祇制度にも変革が加えられた。白川家の当主の資訓王は明治元年(1868年)に王号を返上し明治2年(1869年)には正式に復興した神祇官の次官である神祇大副に就任した。同年、白川家で奉斎されていた八神殿の霊代が神祇官の神殿に移された。明治4年(1871年)、神祇官は神祇省に降格され、明治5年(1872年)には教部省に改められ皇室祭祀は宮内省式部寮に引き継がれた。神祇官の神殿の祭神は賢所へ遷座し歴代天皇および皇族の霊は皇霊殿に天神地祇は神殿に祭られた。八神殿の霊代は宮中に移されたものの儲君への禊を行う祝部殿は白川家に残された。祝部殿は資訓の子で子爵の資長の東京移住に伴い東京へ移転している。資長には実子がなく、伯爵上野正雄の子久雄を養子に迎えたものの、後にこの養子縁組は解消され、昭和36年(1961年)には資長の死去により白川家が断絶したため伯家神道の正統は途絶えることになる。

✳6神理教 (しんりきょう)とは、教祖である佐野経彦(巫部経彦)が、家伝の巫部神道(かんなぎべしんとう)を元に結成した神道十三派のうちの一派である。教祖の佐野経彦の出身地である九州、福岡県の小倉を中心に古神道神理教の教えを展開した。
概要  神理教の起源は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)からはじまる家系図の巫部系譜にあるとされる。教祖である経彦が、家伝や国学をもとに1880年(明治13年)に神道事務局より神理教会の開設の認可を受ける。1884年(明治17年)に神理教となる。御嶽教に所属したのち、1894年(明治27年)に教派神道の一派として特立公認される。1952年(昭和27年)6月14日より宗教法人法による宗教法人となる。天之御中主神から天照皇太神までの十八柱神を天在諸神(あめにますもろもろのかみ)として奉斎し、そこから説かれる教理は古くから伝わる教えであるとされる。神理教は、文化庁の分類によれば教派神道の中でも復古神道系に分類される。復古神道系のほかには、富士信仰や御嶽信仰のような霊峰の崇敬から発展した山岳信仰系や、教祖の宗教体験と教えに比重を置く純教祖系があげられる。九州を中心に信者を増やし明治時代には全国に展開した。経彦は宮家や神道家との交流、また各地で積極的に教理を説き、教勢は全国的に展開した。
巫部神道  経彦の父である佐野経勝も神道家であり、経彦は家伝の書と家系図を受け継ぎ、神道を興すという意を継承している。家系図は、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)からはじまり、経彦で77代目にあたるとされる。経彦の『神理教由来記』によれば、以下のような歴史があった。7代目の伊香色雄命が天津言霊(あまつことだま)を明らかにし、吉凶禍福の起こる理を物述べた。9代目の膽昨宿禰(ふくひのすくね)から物部の姓を名乗った。10代目の物部五十言宿禰(いそことのすくね)は五十音の言霊を明らかにし神術に通じ、神字神書を創作したとされる。12代目の物部以美伎(いみき)が、天在諸神をまつり神符を人々に授けて病気を治すと巫部神道の土台ができていった。八十楯(やとたて)の子である兄奇(えくし)は、雄略天皇の病を神術にて治し、巫部の姓を賜り、これが『姓名録』に豊国奇巫(くしかんなぎ)とあるように、豊国における巫部の姓のはじまりとなった。31代目、連麿が家伝の書を書き改め子孫に受け継ぎ、以降の子孫は神主も多く、妖魔や異賊を退治する祈祷、病を治す祈祷を行った。途中、巫部は佐野へ改称したが以前と同じように栄えており、慶安時代にはキリシタン禁制のもとで、相伝された物を没収され調査されたが、ことごとく返却された。父である佐野右七経勝(つねかつ)による巫部の教えを再興するという志を受け継ぎ、佐野経彦は、明治時代に入って布教の制度が大きくなり、神理教会を設立するに至った。
巫部系譜  1.饒速日命、2.宇麻志麻知命、3.彦湯支命、4.出雲醜大臣命、5.三見宿称命、6.欝色雄命、7.伊香色雄命、8.十市根命、9.物部膽宿称、10.物部五十琴宿称連公、11.物部伊苣弗連公、12.物部伊美伎連、13.物部奴疑称、14.物部大長谷、15.物部八十楯、16.巫部兄久志宿称、17.巫部宿称大久志、18.巫部久志宇羅、19.巫部伊智宿称、20.巫部速ト宿称、21.巫部大正人、22.巫部大楯、23.巫部言宇羅、24.巫部五十串別、25.巫部朝倉別、26.巫部言立、27.巫部伎与良、28.巫部真人、29.巫部正人、30.巫部小久良麿、31.巫部連麿、32.巫部高石麿、33.巫部龍王麿、34.巫部雄麿、35.巫部金木麿、36.巫部春日麿、37.巫部菊王麿、38.巫部真龍麿、39.巫部真滝、40巫部真圀、41.巫部清圀、42.巫部太郎清氏、43.巫部兵衛尉清根、44.巫部宿称清水、45.巫部三郎清名、46.巫部太郎丸盛名、47.巫部小太郎盛義、48.巫部右衛門介盛門、49.右京介盛平、50.左馬介巫部盛直、51.太郎太夫高光、52.修理太夫高成、53.左馬介巫部高樹、54.大宮司右京介高任、55.左平衛介高重、56.右京介巫部重興、57.大巫正六位大炊介重代、58.左京太夫巫司重年、59.黒頭重樹、60.左馬介巫部重氏、61.左馬介巫部重道、62.右京大巫氏盛、63.左馬大巫重威、64.佐野左衛門重足、65.左京常重、66.左馬、67.徳力権四郎重家、68.徳力左衛門重考、69.佐野仁左衛門重継、70.佐野與左衛門巫部経直、71.三右衛門巫部経之、72.佐野六右衛経隆、73.佐野長三郎経長、74.佐野文七常峯、75.佐野新蔵経嶽、76.佐野右経勝、77.佐野経彦。
神理教会の設立  1854年、佐野経彦は国学も学んだ後、家伝の書も受け継いでおり、21歳ではじめての著書『天津皇産霊孝』を著し、これは神道における天津神(あまつかみ)の考察である。このころは皇国医道を業とし、808年に編纂されたの『大同類聚方』(だいどうるいじゅほう)といった書に依拠し日本固有の古医道を目指していたとされる。皇国医道だけでは肉体しか助けられないとし、人心の治癒を意図するようになり国学を唱導し、1875年(明治8年)から1876年には、太政官や内務省に神道に関する著書を献納している。同1875〜76年にはたびたび不思議な夢をみるようになったが、1876年10月16日には遂に日月五行の神々が夢に現れたことをもって、講席を開くことにする。1877年(明治10年)8月、講席を開く。経彦は1878年(明治11年)には『神理図解』を著し、翌年1月には神道事務局より教導職の教導職試補に申しつけられ、同年中6月30日には教導職の権少講義となり、さらに翌年の1880年(明治13年)7月19日には神理教会の開設が許可されている。1881〜1882年(明治14〜15年)ころ、経彦は献本、神理教会に教導職試補を増やす許可を得ること、ほかの神道界の人々の考えを知るなどさまざまな目的を持って上京し、京都、伊勢にも寄った。天皇への教書の献呈も叶っている。献本の返礼として神道教導職の総裁であった有栖川宮幟仁親王および熾仁親王から下賜があり、幟仁親王からは神理無敵との筆書きを拝領し、これは現在も神理教本院に掲げられている。すでに神理教会で皇大神を奉祀していたが、伊勢神宮の皇大神宮の正式な分霊を願って、神宮司庁に赴いたが、神宮教会所属でないので規則で分霊できないと断られ、さらに伊勢神宮祭主の久邇宮朝彦親王の指示を仰ぐよう言われ奔走したがこれは遂に叶わなかった。外宮の豊受大神宮については経勝が神託をうけ分霊を奉載している。後に有栖川宮より皇大神の神鏡を賜っている。経彦は1883年(明治16年)には教導職の大講義となる。なかなか教派としての独立の認可が下りないことから、御嶽教二代管長の鴻雪爪に相談し御嶽教の所属となる、御嶽教では経彦は教導職の大教正まで至る。1894年(明治27年)10月19日には教派神道として独立を公認され経彦が初代管長となる。1903年(明治36年)には独立十年奉祝祭が開かれ、皇族華族から歌が送られている。経彦は国学を学んでいたので『古事記』『日本書紀』と言った古典(神典)を重視した。伊勢派と出雲派に分かれた祭神論争に際しても、神道界として協力すべきという見解を示している。加えて、神典の解説にとどまらず、神典の解読から「人の心を和して導く」ことを重視し、神典からなる教説に重きを置いていた。
教説と特徴  基本的な教説は『神理図』に説かれており、この図に解説を加えるための著書が『神理図解』である。思想は晩年までほとんど一貫しており、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)を中心からなる、日と月、世界と人の成り立ちと、こういった神のはたらき(理)を通した人への教えである。先代旧事本紀大成経や竹内文書など、古史古伝的な要素も見られる。
祭神  饒速日命から十代目の五十言宿禰に端を発し、天之御中主神から天照皇太神までの十八柱を天在諸神(あめにますもろもろのかみ)として奉斎する。 天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神、国之常立神、豊雲野神、宇比地邇神、須比智邇神、角杙神、活杙神、大戸之智神、大戸乃辨神、面足神、稜惶根神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大神、以上十八柱神。 ほかに月夜見神、豊受姫神、経津主神、武甕槌神、大国主神、少彦名神、祓戸大神、野見宿禰命、饒速日命、彦須根大神が祭られている。巫部大祖として忍穂見命を祭る。
神理図  『神理図』では、神の司る気があまねく満ち、天地開闢から神々と世界の成り立ちが説明され、子孫間にまたがる善因善果が簡潔に説明される。
産土神  (うぶすながみ)の考察である『産須根神考』では、産須根とは人が生まれた根であり、氏神であり氏の神であり、産土であるから地主神でもあり、さかのぼれば神の氏であるから、それが一家の氏となり村や地名の氏となったものもある。現在では、なになに八幡とかなになに天神、あるいは地名をつけているけれどもとはその氏神の古い呼称であるから、産土神として奉るのがいいと説かれていく。
宇賀神  『宇賀神本義』では教会内の稲荷は、宇賀御魂(うかのみたま、『日本書紀』の倉稲魂命)、豊宇気毘売(とようけびめ)、宇気母智(うけもち)とされる。伏見稲荷大社や豊受大神宮の祭神でもあり、御饌(みけ)の神である。一生を通じて食物・着物と、この神の恩のないときはないので仰ぎ祭っている。
五行神  復古神道系に分類され神典を重視しているにもかかわらず五行説も重視している。教派神道の研究学者である井上順孝によれば、教派神道の中でも経彦は五行説をもっとも取り入れている。 他の流派も含めて習合神道では一般的に、土神=ハニヤスヒコノカミ・火神=カグツチノカミ・金神=カナヤマヒメノカミ・水神=ミズハノメノカミ・木神=ククノチノカミを五行神としているが、経彦もこの説を採用している。更にこれに加えて、これら五行神を祖として五色人が発祥したという。
組織と展開  北九州市小倉が現在でも中心地である。1877年(明治10年)に講席を開く。
教祖時代  神理教会が1880年に許可される。教祖は1881〜1882年に上京、1887年には、山陽、信濃、東京と巡教、1889年には一派独立の願いのために上京、神戸、西京でも巡教する。 独立前の1890年には分教会50、信徒50万人としている。独立後の1894年には、広島、岡山、伊勢、名古屋、北陸にも巡教する。『内務省統計報告』によれば、教師数は、独立の1894年から500人ほどであったものが1912年には2000人前後で、男性が8割以上を占める。 神理教大本庁に保管された「巫神占免許」の取得者の記録を見ると、第1号は1895年9月17日に任命され、1906年まででは男女比は男性が2割ほど多く、平均すると毎年130人程度が任命されている。免許取得者を都道府県別にみると、本庁のある北九州周辺と、そこから海路の便の良い瀬戸内海沿岸の山口県、四国、広島県、岡山県であり、港が近くにある地域が多い。神理教の教えを布教する支部教会が多かった。1906年、教祖死去の時点で、門人約7千人、信徒150万人としている。
終戦まで  1906年に教祖の経彦が死去すると、2代目管長に長男である佐野伊豆彦が就任する。2代目管長が1936年(昭和11年)に死去すると、3代目管長に伊豆彦の3男の佐野珍彦(1917年 - 1948年)が就任した。まだ若かったために、伊豆彦の弟である佐野高嶺が3代目管長を補佐している。教勢の広がり方に鉄道の影響が見られ、以降は四国での教勢は緩やかに減っていく。ほかに比較的多かった岡山県でも減少していくが、京都、大阪、兵庫県では増加していく。北海道にも増えていくが、これは宗教行政上、ほかの組織ないし教団が財政上の優遇などのためより大きな教団に所属したという時代背景がある。「巫神占免許」の免許取得者は、1907年から1945年までの39年間で5342人で、男女は半々である。1940年(昭和15年)、宗教団体法が制定され神道教派の一派となる。
戦後  1946年から1977年まででは次のような特徴がある。戦後は、宗教法人の認可が容易になり、より大きな教団に属している必要性がなくなったため、いくつかの団体が離脱し別の宗教法人となる。ほとんどは教祖没後に支部教会となったものである。1947年(昭和22年)4月12日、宗教法人令による宗教法人になる。1952年(昭和27年)6月14日宗教法人法による宗教法人となる。免許取得者数は、1952年に319名とピークを迎え、以降は年間数10人程度で推移した。 佐野珍彦は1948年に死去する。4代目管長には佐野高嶺の長男である巫部健彦(1926年 - 2006年)が就任した。1994年、独立百周年大祭。2000年、開教百二十周年大祭。2006年、教祖昇天百周年大祭。

✳7九鬼神道 http://mysteryspot.org/report/takamihura/takamikura01.htm
九鬼一族は、天孫降臨の際の宰相神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祖とし、天皇家の祭祀を司っていた藤原家に繋がる熊野別当の宗家である。後醍醐天皇が吉野に落ちのびようとしたとき幕府側の追っ手から鬼のような活躍で三種の神器を守ったことから、九鬼の姓を賜ったという。
戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉に仕えて、九鬼水軍として活躍する。
この九鬼一族には、九鬼文書といわれる謎の文書が伝えられている。
九鬼文書は、天児屋根命、天種子命、天中押別命および大中臣牟知麿が神代文字で書き伝えた文書を、藤原不比等が漢字に訳し、藤原家と九鬼家がさらに書き足してきた合作であり、歴史から兵法や芸術に至るまで書かれた古代の百科事典である。
しかし、特記すべきはその歴史書の内容である。宇宙創成から人類史まで全世界規模の驚愕な物語が書かれている。ノアもイエスも釈迦も登場する竹内文書に似た万教同根の歴史書で、古事記・日本書紀と決定的に異なるのは、スサノオの出雲王朝を正統としている点である。
この九鬼文書と言えば大本教(正確には大本)との関係も無視できない。大本教は丹波の綾部の霊能力者出口ナオのお筆先と呼ばれる自動筆記と出口王仁三郎の神懸りによって大きくなった宗教団体で、1921年と1935年に政府による宗教弾圧事件が起こり壊滅する。
弾圧後、生長の家の谷口雅春、世界救世教の岡田茂吉、神道天行居の友清歓真、心霊科学研究会の浅野和三郎、合気道の植芝盛平など多くの高弟たちがこの大本教団を離脱して活躍する。新興宗教史の要に位置する教団である。
出口ナオは艮の金神(うしとらのこんじん)の啓示を受け、この神が世に出ることによって世の中が改まるとした。この神は出口王仁三郎によって国常立神(くにとこたちのかみ)と解釈され、地球を創った国常立神は、世界統治に失敗した責任をとって隠れ、世界を救うための救世主としてスサノオを使わしたというのが、大本教の国祖神隠退再現神話とスサノオノミコト救世主説である。これは、九鬼文書と符合する。九鬼文書の鬼門祝詞には、宇志採羅根真大神(うしとらのこんしんおおかみ)が出現し、「天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産霊神(たかみむすびのかみ)、神御産霊神(かみむすびのかみ)、伊弉諾神(いざなぎのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月夜見大神(つくよみのおおかみ)、建速素戔鳴大神(すさのおのおおかみ)」を統合したものとされる。大本教は、スサノオを救世主とし、九鬼文書は出雲王朝を正統とする。王仁三郎は、神道、道教、回教、仏教、キリスト教などを統合することを目論んでおり、これは九神文書の万教同根に繋がる。出口王仁三郎は、坤の金神(ひつじさるのこんしん)が幽閉されているとして高御位山の対岸に位置する神島の島開きを行った。また、出口王仁三郎は、高御位神宮で九鬼神道のトレーニングを受けたとも言われ、九鬼文書と大本教がこの高御位山で交差する。この高御位山が特別なスポットであることは間違いない。高御位山頂には、九鬼家が奉納した。「天乃御柱天壇」と書かれた真新しい石柱が建てられている。これは、九鬼文書で万国統治の神とされる天之御中柱天地豊栄大神(あめのみなかはしらあめつちとよさかおおかみ)を祀るという意味であろうか、さらに祭壇下部には、「天君再臨霊界粛清」と書かれている。救世主が高御位に現れることを意味しているように思える。九鬼一族は、今もこの高御位山を重要な場所としていることがわかる

✳8修験道 (しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教である。修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏という。
概要  修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立した日本独特の宗教である。日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもある。 この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る 修行して その徳を驗(あら)わす」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶ。修験とは「修行得験」または「実修実験」の略語とされる。修験道の修行の場は、日本古来の山岳信仰の対象であった大峰山(奈良県)や白山(石川県)など、「霊山」とされた山々であった。中でも、熊野三山への信仰は、平安時代の中期から後期にかけて、天皇をはじめとする多くの貴族たちの参詣を得て、隆盛を極めた。修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られる。表現形態として、権現(神仏が仮の姿で現れた神)などの神格や王子(参詣途上で儀礼を行う場所)がある。神道で用いられる祭祀や祝詞(大祓詞など)をしない行事もあれば、祝詞・祓詞・加持・祈祷も行う行事・儀式もあり、経典で示されるものや真言を唱えるものばかりではない。修験道は全国霊山、各寺社仏閣により次第は異なる。神仏習合の権現や明神が必ずしも主神とは限らない。本地垂迹の仏教の仏を祭祀している他、天照大神を初めとする諸国の神々も年中行事として祀り、礼する。一見の判断や視聴で修験道の把握は従事者及び研究者や論学者などでも判断は困難であり、一概の例に留まる見解は誤認を際するので注意したい。上述の熊野信仰においては、三所権現・五所王子・四所宮の祭神が重要な位置を占めており、これを勧請した九十九王子が有名である。山伏と関連するため、山に関連した神格が存在することもある。
歴史  修験道は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている。修験道は、平安時代のころから盛んに信仰されるようになった。その信仰の源は、すでに8世紀からみられた仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の動きの中に求められる。神仏習合は徐々に広まり、神社の境内に神宮寺が、寺院の境内に「鎮守」としての守護神の社がそれぞれ建てられ、神職、あるいは僧職が神前で読経を行うなどした。そして、それらの神仏習合の動きと、仏教の一派である密教(天台宗・真言宗)で行われていた山中での修行と、さらに日本古来の山岳信仰とが結びついて、修験道という独自の信仰が成立していった。このように、修験道は、密教との関わりが深かったため、修験道法度弐を定めることで仏教の一派と見なして統制した。修験道は、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。 江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにした。明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものも破壊された。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる。
有名な修験道独自の神  蔵王権現(ざおうごんげん)・愛宕権現(あたごごんげん)・若一王子(にゃくいちおうじ)・九十九王子(くじゅうくおうじ)・前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)・一言主(ひとことぬし、元は賀茂氏の祖神)・天狗(てんぐ)
教義  修験道とは柱源の境界を得ることを究極の目的とする宗教である。柱源の教えは難解であるため、初行者は密教を修めることで境界を高めることから修行を始める。柱源法は園城寺と醍醐寺のみが護持する。園城寺では柱源法流、醍醐寺では惠印法流として相承する。そのため修験寺はこの二寺の末寺となって本山派、当山派と呼ばれたのである。従って近年、修験を自称する宗派が増えているが、密教法流と柱源法流または惠印法流を伝承しない宗派は修験とは呼び難い。修験道が峰中で行う修行は十界修行という、無相三密の修行である。柱源の境界を得るための修行として峰中修行が重視されるが、山野を駆けることが修験の本旨ではない。
経典  前述の通り、修験道の初行者は密教を修める。そのため天台宗(台密)、真言宗(東密)の金剛界、胎蔵界の修法に用いる経典が用いられる。柱源法は近年次第が出版されているが、かつてはその名さえ秘され、一般に知られることは無かった。柱源法については阿吸坊即伝法印や海浦義観法印の著書に記述がみられるが、事相についてが中心である。これは柱源法が筆授によらず、面授口伝を契機として相承するものだからである。
宗派  修験道の法流は、大きく分けて真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類される。当山派は醍醐寺三宝院を開いた聖宝理源大師に端を発し、本山派は園城寺の増誉が聖護院を建立して熊野三所権現を祭ってから一派として形成されていった。真言宗や天台宗は皇族・貴族との結びつきが強いが、修験道は一般民衆との関わりを持つものであり、その意味において、修験者(山伏)の役割は重要であった。現代では、奈良県吉野山の金峯山寺(金峰山修験本宗)、京都市左京区の聖護院(本山修験宗)、同伏見区の醍醐寺三宝院(真言宗醍醐派)などを拠点に信仰が行われている。また、日光修験や羽黒修験のように各地の霊山を拠点とする国峰修験の流れもある。

✳9メラネシア人 西南太平洋のメラネシアに住む人々の総称。広義にはパプア人を含める場合もある。人種的にはモンゴロイドと混血したオーストラロイド系の民族であるが、島嶼間の交流の結果、様々な移住者が入ったことから体格・風貌も様々であり、人種的特徴を一概に挙げることは困難である。彼らは約5000年前にメラネシア水域の島々にやってきたと考えられており、ソロモン諸島、ニューヘブリディーズ諸島、フィジー諸島、ニューカレドニア島などに居住する。顔立ちはポリネシア人に近く、皮膚の色にはパプア人のような統一性は無く、濃い者も薄い者もいる。しばしばアフリカの民族と比較されるが、オーストラロイドとモンゴロイドの混合人種であるメラネシア人は、表現型が非常に多様な集団である。

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