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斎王からの伝言[創作] 2

2  能楽師 ミキ

 父親が医者だったため、小さな頃から厳しく躾られた。物心つく頃から畳の上に座布団を敷き正座をして勉強をした。子供部屋としての仕切りは無くリビングから姿が丸見えで、怠けることなど出来なかった。長女ということもあり医者になることが当たり前のように育ち、成績は中高ともトップクラス。大学は一浪して国立の医学部に合格し、卒業後は地元の病院で研修医として働いた。

 昔から鉱物に関心があった。歴史がある宝石も好きだ。ブルーダイヤモンドのホープ、大粒ダイヤのコイヌール、王冠についている宝石を直接見てみたいと願った。

 神社に奉られている御神体の磐座にも惹かれた。見ているだけでも、触るとなお安心し癒され、物言わないドッシリとした存在感のある岩にその土地の悠久の流れを感じた。私の不満や愚痴なんてものは些細な事でドーンと受け止めてくれるような気がした。本当は人の身体より鉱物について学びたかった。
 
 西洋医学は対症療法で、病気の症状が出て初めて治療が出来る。東洋医学でいう未病の状態では日本の医療では手も足も出ない。でも、人間は症状が悪化する前の未病の状態で、食事や休養によって治療する方がずっと効率的だし身体の負担も少ない。

 外科手術なら西洋医学の出番だが、どちらが優れているという訳ではなくもっとバランスの良い医療体制に日本がならないかと日々悶々と考えていた。

 何より一番重要なのは人の精神だ。ここは他人である医者では手が出せない個人の領域で、尚且つ一番深く病と密着している。神道や仏教は、そんな私のジレンマに答えてくれるような気がした。能の稽古に通い出すのにそれほど時間は掛からなかった。

 転機は32才の時、2011年の東日本大震災だ。原子力発電所が爆発し放射能が福島に降り注いだ。私は郡山市の総合病院で皮膚科医として働いていた。毎日が放射能汚染の恐怖と隣り合わせだった。恐怖、不安、風評被害、農家の人たちが目に見えない敵と格闘し衰弱していく様を見守った。患者は日々増え、放射能の影響ではないかというストレスからか、蕁麻疹、膠原病、アトピー性皮膚炎が増えている事を肌で感じた。毎日暗い顔をした患者に薬を出し続けた。

 日々重苦しい勤務の合間の救いはFacebookで知り合った彼女達との交流だった。一人は自称漫画家でフリーターのコウさん。私より2つ年上。もう一人は栄養士のエマさん。福祉施設で働いていて、わたしより4つ年上。
 
 私と彼女達との共通点は、社寺と能楽だ。動きが自由なコウさんが、気になる場所に出掛けて行き現地の写真を送ってくれる。それに対して定期的に会議と称しSkypeで好き勝手に歴史背景を想像し3人で話し合うのだ。

 一番盛り上がったのが、コウさんが三重県の五十鈴川にしばらくアルバイトで住んだ時だ。二見興玉神社、外宮、内宮、月読宮、瀧原宮や伊雑宮、倭姫宮、そして私達は斎王という存在に胸を熱くし、2011年が終わる頃には野花菖蒲会を結成した。斎王は日本独自の概念だとして世界に発信しようと3人で誓いあった。

 私が稽古に通っていた能楽の流派は観世流で、斎王だった白河天皇皇女、媞子内親王が田楽に夢中だったと知り余計稽古に熱が入った。

 観世流の大成者世阿弥が、田楽の神様と評された一忠が芸風の師であると父の観阿弥が言ったくらい自分たちの芸は、田楽からも影響を受けたと風姿花伝の書物に書かれてあったからだ。

 世阿弥は最高の状態で能を舞うために、徹底した自己管理を行っていた。医者にも言える事だが、自分が病んでいたら患者を治せるはずがない。たとえ病が襲ったとしてもそれを己で対処出来なければ、結局は医療という名前のお金を貰うための業になってしまう。そして私は、能の稽古に熱中するほど自分の心が病んでいた事に気付いたのだ。
 
 西洋医療の良い点は、劇的に即効性があることだ。膨大な臨床データから得た確かな根拠で導き出した処置を施すと明らかに表面的に病状が改善する。表面的にというのは、数値で改善していると判断することだ。そして医者が出来るのはそこまでだった。

 それが仕事だから、私は患者の精神を見なかったし、国家資格の決められた範囲内で患部を確認して、治療する作業を繰り返した。そうしなければ、とてもじゃないが耐えられない。自分ではどうしようも出来ない無力さに心が痛んだ。
 
 患者の親御さんが、福島原発の避難区域外50キロ圏内で農家を営んでいた人がいた。アトピーが酷かった自分の為に、慣れない有機栽培に取り組み評判を呼んでいると嬉しそうに語って野菜を持って来てくれた事が以前あった。

 事故後一度だけ治療しに訪れたが、顔面蒼白で見ているだけで痛々しく感じた。お決まりの慰めの言葉を伝え、いつも通りの治療を終えた。

 その数ヵ月後、自殺したと聞かされた。父親が苦悩した末、過労で亡くなり、また母親が後を追うように亡くなり、全てが失われてしまっていた。彼女の顔面蒼白な顔を思い出し私の中で西洋医療に対する忠誠心や、仕事をする上で最も必要な自信が崩れてしまった。

自分は感受性が強すぎるのだと、医者に向いていないと理解した。
 
 そこからは早かった。能の先生にどうしようも出来ない、のたうち回るような苦しい心の内を明かした。黙って聴いていた先生が、静かに言われた。
「能の世界に入りますか?私のもとで住み込みの修行をしないといけません。ただし、はっきり言いますが女性に能は無理です。万が一プロになれても、食べていける補償はありませんよ。」

私はすがるように「どっち道、生きていけないのですから、私は能の世界に身を置きたいのです。」

そうして、能楽師の道を選んだ。

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