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大園桃子が思い出になる前に

なぜ僕はこんなにも彼女の卒業に喪失感を抱いているのか。

2021/9/4、大園桃子さんが乃木坂46から卒業し芸能界も引退しますね。僕が乃木坂46のファンになってから約1年が経過し、その間に白石麻衣さんを始め何人かの卒業があり、そのたびに喪失感を抱いてきました。

こんなことを言ってしまうと失礼かもしれませんが、僕は大園桃子さんの卒業に対して、これまで見てきたメンバーの卒業とは比較にならないほど大きな喪失感を抱いています。

今回は彼女の卒業に対しての心の準備を兼ねて、僕が大園桃子さんの卒業に大きな喪失感を抱いている理由をアウトプットし、彼女の卒業日である2021/9/4を祝福と労いをもって迎えられるようにしたいと思います。


二度と会えないから

大前提として、これが理由として挙げられます。

上述した通り、大園桃子さんは乃木坂46を卒業すると同時に芸能界も引退します。大園桃子さんが一般人に回帰するということは、彼女に親しい人でなければもう二度と彼女に会ったり顔を見たりすることが出来なくなることを意味しています。

これが無尽蔵に寂しさを催してくる。

確かに過去の映像を遡れば彼女の姿を観ることは出来ます。しかし彼女が芸能界を引退すればメディアを通して会えなくなり、同じ時間の中に生きている彼女に会うことは出来なくなってしまいます。

乃木坂46を卒業したメンバーのほとんどは、一人の芸能人として俳優業やタレント業に勤しんでいます。そのメンバーが芸能活動を続けてくれる限りはメディアを通して会えるため、潜在的な安心感があると同時に喪失感が少ないんですね。

しかし、大園桃子さんのように乃木坂46卒業と同時に芸能界をも引退するとなると、もう二度と会えなくなるという現実を突きつけられ、卒業日が近づくにつれて喪失感も大きくなっていきます。それを緩和する安心感もないのでただただ寂しさが増すばかりです。

僕がまだ乃木坂46を知る前の話ですが、乃木坂46の歴史には、卒業と芸能界引退を同時に行うことの前例があります。あの頃、ファンはどんな気持ちを抱いたのか今では痛いほど理解できます。

以前の記事で述べた通り、僕は大園桃子さんが乃木坂46を卒業してから一人の芸能人として活躍していく姿を想像できません。彼女は乃木坂46に所属しているからこそ最高に輝く人材なのだと思います。そのため彼女が乃木坂46を卒業すると同時に芸能界も引退することは然るべき判断だと思っています。

しかし、たとえそのような見解があったとしても、もうこれ以上乃木坂46の大園桃子さんの思い出が増えないことを考えると、やはり寂しさがこみ上げてきます。

ああ、寂しい。
どうしようもなく寂しい。


尊敬しているから

現代におけるアイドルの価値の一つに、少女の成長譚を見届けられることがあると思っています。最初はあどけなくて何も出来なかった一人の女の子がだんだんと人間として、そして芸能人として成長していく姿をファンは愛で、声援を贈るのだと思います。

この価値観をもって大園桃子さんを観ると、彼女はまさにアイドルそのものでした。乃木坂46加入当初、大園桃子さんはお見立て会の挨拶で号泣してしまったり先輩達の前で緊張のあまり失神してしまったりしていた、どこまでもか弱くて繊細な女の子でした。恐らく周囲にいたメンバー・スタッフ・ファンの誰しもが「この子は本当にやっていけるのだろうか」と心配していたと思います。

そんな華奢な女の子がズタズタに傷つきながらも少しずつ成長し、今となっては何万人もの観客の前で堂々とパフォーマンスしたり先輩として4期生に接したりしています。

「のぎおび」で大園桃子さんは遠藤さくらさん手紙を書いていましたが、先輩から後輩に贈る言葉として最高のものであり、遠藤さくらさんはおもわず感涙していました。一人の先輩として後輩を愛でているからこそ出てくる言葉であり、大園桃子さんがすっかり先輩になったことを実感させられました。

僕は、そのように傷つきながら戦い続けて成長してきた大園桃子さんを心から尊敬しています。そして戦い終える彼女に対して労いの気持ちを抱いているのです。恐らく、僕と同じように大園桃子さんを尊敬し魅せられた人は多いのではないでしょうか。

先日開催された大園桃子さんの卒業セレモニーで、秋元真夏さんは大園桃子さんに対してこのような言葉を贈っていました。

本気で戦って必死に乃木坂というものになろうと頑張ってきた後輩の背中はこんなにかっこいいものなんだなということをこの5年間で知ることができました。

この言葉には激しく同感します。大園桃子さんはもはや可愛らしいだけではなく、幾多の戦いを乗り越えてきたかっこいい尊敬に値する最強のアイドルなのだと思います。彼女は間違いなく強い人です。

だからこそ、そのような人の存在がこれから思い出に変わっていくことが寂しくてたまらないのです。


勇気をくれるから

卒業セレモニー当日、Twitterには「#桃子ありがとう」というハッシュタグがトレンド入りしていました。興味深いのは、トレンド入りしたハッシュタグが「#桃子卒業おめでとう」ではなく、「#桃子ありがとう」ということです。

多くの人が大園桃子さんに感謝の気持ちを抱いているんですね。どのような感謝の気持ちを抱いているのかは人それぞれですが、僕も同様に大園桃子さんに対して感謝の気持ちを抱いています。

涙を堪え時には流しながらも戦い続ける姿を見せ、僕に勇気を与えてくれた大園桃子さんに対して心からのお礼を言いたい、そう思っています。これだけ多くの人から感謝されている大園桃子さんはもはや一人の英雄であり、乃木坂46の歴史に大きな爪痕を残したと言えるでしょう。

大園桃子さんはもともと乃木坂46に加入する意欲はそこまで強くなかったと言われています。単純に学校の先輩から勧められてオーディションを受けてみたら、気づいたときには引き返せないところまでオーディションが進んでしまっていたようです。そして最終審査のオーディション参加者が全員合格し、彼女は乃木坂46に加入することになりました。

大園桃子さんも告白していたことですが、そのような境遇で乃木坂46に加入したために「本当にここにいて良いのかな」という葛藤を抱いていたそうです。その上でプリンシパルという過酷な行事やセンターや選抜に起用されていたのですから、その苦悩は想像も出来ません。

それでも大園桃子さんは5年もの間乃木坂46に所属し、多くの人に成長し変わっていく姿を見せてきてくれたのです。

また、これはあくまで僕個人の見解ですが、大園桃子さんは乃木坂46で最も個性的な人物だと思っています。鹿児島弁の訛りを始め、独特な声質、強い感受性をもち、自分の気持ちにどこまでも素直です。

声質は別ですが、大人になるにつれ、周囲の人への協調を意識することでこれらの個性は良くも悪くも徐々に失われていくものだと思います。上京して周囲の人が標準語ばかり話す環境に身を置いていれば訛りも例外ではないでしょう。しかし彼女はその強烈な個性を失うことなく、ここまで来たのです。

乃木坂46が、個性を尊重し各メンバーがありのままでいられるような温かみのある組織であることは容易に想像できます。しかしたとえそうであったとしても組織の中で我を通すには、多かれ少なかれ周囲を納得させる実力を身に付けたり人一倍努力している姿を見せたりする必要があり、きっと彼女は無意識のうちにそれらに真っ向から立ち向かって熟してきたのでしょう。

特に大園桃子さんのように良くも悪くも感情をむき出しにして涙を流す人は、組織では腫れ物に触るような扱いをうけ、疎まれてもおかしくありません。しかし大園桃子さんの周りには、そんなありのままの彼女を受け入れている3期生に代表される乃木坂46の仲間がいます。

これは乃木坂46の仲間が各メンバーのありのままを受け入れる器量があったことは確かですが、なによりもありのままの自分を曲げずに真っ直ぐに突き進み、周囲が納得するような努力をしてきた大園桃子さんだからこそ成し遂げられた組織の形なのだと思います。

ただでさえ乃木坂46でいることに疑問を抱いていた彼女です。またモラトリアムの只中にあったであろう年代を乃木坂46として、一人のアイドルとして過ごしたのです。恐らく誰よりも自らの在り方に苦悩していたことでしょう。それでも自らの個性を押し殺すことなく、ありのままでいた大園桃子さんに対してはもはや憧れすら抱きます。そして称賛を贈りたい。

そんな僕としては、乃木坂46で強烈な個性を発揮し続ける大園桃子さんをもっともっと見ていたかったです。彼女の個性が強烈だった分、その反動で彼女がいなくなったときの喪失感はあまりに大きいものがあります。


まとめ

僕が乃木坂46を好きになった理由を以前の記事でアウトプットしました。それは尊敬していること、そして勇気をくれることでした。

これらはまさに僕が大園桃子さんに抱いている印象そのものです。彼女の卒業を間近に控えて思い返してみれば、僕にとって乃木坂46とは大園桃子さんのことだったのだと思います。

僕は乃木坂46の有り様に惹かれており、乃木坂46が大好きです。そしてもちろん、乃木坂46の一員としてその有り様を強く投影した大園桃子さんのことも大好きです。たとえ彼女が乃木坂46を卒業したとしてもこの気持ちは変わらないでしょう。もはや人間として、その生き様に惚れていると言っても過言ではありません。

大園桃子さんはいまがアイドルとして全盛期なのだと思います。彼女自身、今が楽しいと様々なメディアで言及しています。乃木坂46で活動していることを心から楽しみ、アイドルとして覚醒し、自らの個性を存分に発揮している今こそ大園桃子さんは唯一無二の輝きを放っていると思います。恐らく卒業しなければその勢いはより強くなっていくでしょう。

そんな全盛期で「まだ観たい」という周囲の期待が絶頂の時期に引退するとなると、その身の引き方はお見事です。これほどかっこよく粋で痛快な引退をすれば、彼女の存在は伝説的な人物として語り継がれていくはずです。

以前、元アイドルという方のインタビューを聞いたとき、芸能界を経験してから一般的な社会生活に戻ってみたら、むしろその生活に馴染めない身体になっていたという話がありました。

毎日同じ時間に起きて、毎日同じ電車に乗り、毎日同じ場所に行って、毎日同じ人と会って、毎日同じような仕事をすることに耐えられなくなっていたとのことです。

なるほど、芸能界を経験した人から見たら一般的と言われているライフスタイルの方がむしろ狂気的だという見解はどこか納得出来ます。

引退後、大園桃子さんにもこのような独特なストレスは生じるかもしれません。

もしそうなったら乃木坂46に戻ってきても良い。戻るのが気まずいなら「公式サポーター」とか「公式マネージャー」とか「公式リポーター」とか、「公式お兄ちゃん」であるバナナマンのお二人のように乃木坂46ではないけれども強い繋がりをもった存在として立場を確立してくれても良い。それなら乃木坂46に所属していなくても違和感なく芸能活動を続けていけると思います。いや、むしろ今からでも卒業と引退を撤回してくれても良い。とにかくどんな形であれ、僕はまだ大園桃子さんを見ていたいのです。

叶うはずのない願いではありますが、「公式サポーター」とか「公式マネージャー」とか「公式リポーター」とかであればファンも歓迎するのではないでしょうか。

ただ何よりも願うのは、大園桃子さんにはとにかく幸せになってほしいということです。そして乃木坂46で過ごした時間と功績を栄光として胸に抱き、これからの人生を生きていってほしいと思います。僕は大園桃子さんを決して忘れません。この出会いに意味がある。

以上、「大園桃子が思い出になる前に」でした!!

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