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『骸骨 ジェローム・K・ジェローム幻想奇譚』発売

この7月に刊行したばかりの『骸骨 ジェローム・K・ジェローㇺ幻想奇譚』、幻想文学を愛好する皆様は、もう書店で見掛けられたでしょうか。
新刊が並ぶ書店では、古書と見紛うほどのヴィンテージ感が異彩を放っていると評判の本書ですが、「実際のところ中味はどうなの?」とご関心をお持ちくださる皆様に、ちらりと内容をご紹介したいと思います。

ジェローム・K・ジェロームって?

ジェローム・クラプカ・ジェローム(Jerome Klapka Jerome)は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した、英国屈指のユーモア小説作家です。代表作の『ボートの三人男』(1889年)の邦訳は、丸谷才一訳の中公文庫版と小山太一訳の光文社古典新訳版で読むことができます。これは3人のイギリス人紳士と犬がテムズ河をボートで旅するお話で、英国流のシニカルでウィットに富んだユーモアがたいへん愉快な作品です。こんなにも明るいドタバタ喜劇を書く作家なら、さぞかし実人生も朗らかな人物に違いないと思ってしまいますが、実は決してそうではなかったようです。
本書に掲載している略歴を引用しますね。

一八五九年、スタッフォードシャー生まれ。ユーモア小説『ボートの三人男』で知られるイギリスの作家。ロンドンの貧しい地区イースト・エンドで貧困に苦しむ幼少時代を送った後、十三歳から十五歳のときに両親を相次いで亡くし、学業を諦めて働き始める。十八歳のときに移動劇団に加わるが三年で役者の道を諦め無一文でロンドンに戻り、弁護士事務所の事務員などをしながらエッセイや短篇小説を発表するようになる。新婚旅行のあと発表した『ボートの三人男』(一八八九年)が評判になったのを機に専業作家となり、小説、エッセイ、戯曲を書き、また雑誌の編集にも携わる。しかし『ボートの三人男』を超える評価を得ないまま、一九二七年、自動車旅行中に脳出血で逝去。

意外にも、明るい人生とはいいがたい、苦難に満ちた人生だったことがうかがえます。そしてたくさんの作品を書き残しているにもかかわらず、『ボートの三人男』を越える評価を得られないままにこの世を去っているのですね。『ボートの三人男』以外の作品は、そんなにもつまらない作品だったのでしょうか? いえ、そんなことは決してなかったのです!

 Ash-Tree Press から二〇〇八年に刊行されたCity of the Sea and Other Ghost Stories を読んでみると、これが予想外に面白い。如何にも『ボートの三人男』を連想させるユーモア溢れた幽霊物語もあれば、とにかく冷たく怖い怪奇小説もあるし、優しく美しい幻想小説もあり、さらに不思議な雰囲気を漂わせる現代ファンタジイや数千年の時代を跨ぐケルト・ファンタジイもある。
 どんな優れた作品集でも似たような傾向の作品ばかりだと飽きてきてしまうこともあるが、ジェローム・K・ジェロームの幻想怪奇小説集ではそのような心配はまったくなかった。
(本書「訳者あとがき」より)

実際に読んでみると、どうしてこれが生前に評価されなかったのかと思えるような、多彩な魅力をもった傑作ばかりだったのです。『ボートの三人男』との大きな違いを挙げるとすれば、ただ一つ、ユーモア小説として書かれていないということ。英国では本当にユーモア小説が好まれていたんですね。P・G・ウッドハウスもしかり。

日本ではどのように紹介されてきたかというと、大正から昭和初期にかけてのモダニズム全盛期に一世を風靡した探偵小説雑誌『新青年』誌上で数篇が紹介されているものの(ウッドハウスもそうでした)、『ボートの三人男』以外に小説の単行本は刊行されていません。アンソロジーに収録されたものとしては、各務三郎編『世界ショートショート傑作選2』 (講談社文庫・1979年)、風間賢二編『フランケンシュタインの子供』(角川文庫・1995年)に収録された「ダンシング・パートナー」があり、邦訳で読めるジェロームの怪奇小説はこれが唯一でした。なおこの作品、原題 "The Dancing Partner" は、今回の『骸骨』にも「ダンスのお相手」として新たな訳で収録しています。

怖くて暗い本なの?

『骸骨』は『ボートの三人男』とは異なり、ユーモア小説として書かれていない作品を集めた、日本オリジナルのアンソロジーです。「じゃあ、暗くて怖い話ばかりなの?」と思われた方、それは違います。幽霊や神秘現象、怪奇的事象を題材にしてはいても、そこはやはりジェローム流。随所にふんだんにユーモアが仕掛けられています。「これは暗くて怖いお話だぞ」と身を固くして読み始めた読者は、突如あらわれる笑いの罠の連続についつい口元が緩んでしまうことでしょう。

たとえば先に挙げた「ダンスのお相手」は、天才的な機械職人の男ガイベルが作り出した自動人形にまつわる恐ろしい事件を描いた怪奇色の強い作品ですが、人形を作るきっかけとなった出来事の描写にユーモアが感じられます。
ガイベルに創作のヒントを与えたのは、舞踏会の日を前にした娘たちのおしゃべり。盗み聞きされているとも知らず、ガイベルの娘とその友人たちは近頃の男についての辛辣な批評を繰り広げます。

『どの舞踏会に行ってもまともに踊れる男の人って少なくなっているみたい』娘たちの一人が云った。
『そう、気取っていればいいみたいなのも駄目。そういうのは気に入られようとするばかりだし』もう一人が云った。
『それに、話すことがみんな莫迦で。いつも同じことばっかり。「今夜は何て素敵なんだ」「ウィーンにはよく行くの? そうに決まっているね、ウィーンは楽しいよね」「とても綺麗なドレスを着ているね」「今日はずいぶん暖かい日でしたね」「ヴァーグナーは好き?」何かもう少し新しいことを考えてくれればいいのに』三人目が云った。
『あら、私は何を話すかなんて全然気にしていないけど。上手に踊れるのなら莫迦でも何でもいいのよ』四人目が云った。
『たいていそうだけど』口を滑らせたように、しかし、意地悪く瘦せた娘が云った。
『舞踏会には踊りに行くんだから』さっき話していた娘が、言葉を遮られたことにも気づかず話を続けた。『ダンスの相手に求めることは、私をしっかり支えて、ぐらつかないように私の向きを変えて、私よりも先に飽きたりしないことだけ』
『じゃあ、あなたには発条(ぜんまい)仕掛けの人形がいいんじゃない?』さっき話を遮った娘が云った。
『最高じゃない? 名案でしょ、それ』別の娘が手を叩いて云った。
  [中略(※手厳しい批評はさらに続く)]
『ああ、それいいかも。本物よりずっといいんじゃない?』瘦せた娘が云った。
 ガイベルは新聞を置いて、全身を耳にして聴き入っていた。娘の一人がガイベルの方をちらりと見たときは、慌ててまた新聞の後ろに隠れた。

広げた新聞で身を隠し気配を消しながら自分の娘が友達とおしゃべりするところを必死に盗み聞きするお父さんという構図は、怪奇小説の文脈には不釣り合いな滑稽さがあります。

このほかの作品にも思わずくすりとさせられるユーモアがそこここに仕掛けられていて、幻想と怪奇をベースにしながらもユーモアのアクセントが効いた、豊かな味わいの1冊となっています。出世作『ボートの三人男』よりも後年の、人生の円熟期に書かれた作品を収めた『骸骨』。装丁の帯には〈異色作品集〉と紹介しましたが、もしかすると『骸骨』にこそジェローム本来の作家性があらわれているのかもしれません。
夜寝る前に読んでも安眠を妨げることはありません。通勤時に読んでも暗い空気を纏わせてしまうことはないはずです。心を和ませ、ひととき彼方へと連れ去ってくれる幻想奇譚を、一篇一篇ごゆっくりお楽しみください。

ところで犬は?

さて、すでに『ボートの三人男』をお読みになっている方がジェロームの新刊と聞いてもっとも気になるところといえば、「犬」の扱いではないでしょうか。
『ボートの三人男』といえば、犬のモンモランシー。主人公のジム以上に存在感を発揮する彼の活躍は、同作の大きな魅力です。

では『骸骨』はというと、犬好きの皆様にお伝えするのはたいへん心苦しいのですが、『骸骨』には犬をメインにした作品はありません。しかしどうかがっかりなさらないでください。本書には、とっておきの犬登場シーンがあるのです。
それはいったいどこなのか? どんなふうに犬が描かれているのか?
これは本書を買うかどうかの決め手となる重要なポイントだと思いますが、読者の皆様にはぜひ初読時に驚きを味わっていただきたいので、ここで具体的な箇所を「ネタバレ」することは控えます。

しかし、こっそりヒントを明かすなら「ブルターニュのマルヴィーナ」は、犬好きの方々をきっと喜ばせる作品です。初めてあの場面を読んだときには大いに驚きうろたえました。まさかあんなところで、あんな登場の仕方で、あんなに存在感を発揮するなんて……! 

また、カーテンコールに応えるかのように登場する巻末の著者写真にも犬が寄り添っています(ちなみにこの写真には「人と犬の顔が似ている?」と校閲指摘が入りました。うっかり見過ごしていたのですが重要な指摘です)。ところでこの犬、キャプションに記されているように『ボートの三人男』に登場する犬・モンモランシーのモデルかと思いきやそうではないのですが、名前は「ジム」といいます。そう、『ボートの三人男』の主人公と同じ名前なんですね!

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本書には他にも、犬サービスが仕掛けられています。モンモランシーも意外なところに登場するので、ぜひ犬探しも楽しんでみてくださいね。

クリスマス・イヴではじまる本

弊社のnoteを読んでくださる皆様だけのために、ここだけの話を少し。
『骸骨』には全部で17篇の作品が収録されていますが、この配列順を考えるのは、それはそれは困難でした。

本書に限らず、短篇集では編集者が配列を決めることも少なくありません。配列を考えるときの観点は本の内容や性質によって、また編集者によって様々ですが、発表年代順に機械的に配列するとき以外は、これはもう大いに悩むところです。特に本書は、夢でうなされるほど悩みました。それは本書収録の作品一つ一つがどれも個性的で、多彩な魅力にあふれていたからです。

本全体のまとまりを出しつつも、一篇一篇の個性ある魅力が光るようにしたい。17篇もあるので、途中で読むのをやめてしまうことがないように、次々と「はしご」したくなるような連続性もゆるやかにもたせたい。あまり連続性が強すぎると、別の空気の作品になった時に断絶感が出て読むのを一区切りしたくなるので、あくまで連続性は「ゆるやかに」。読後感は「読んで良かった」と思えるように、後味よく。そしてできれば2度3度と何度でも読みたくなるように、初読時には気づかなくても、再読以降で初めて気づくような伏線めいた配慮も仕掛けたい。……などなど、それはもう、いろんなことを考えに考えて配列を決めるわけです。(とはいえ、どの作品から読んでもOKです!)

今回の『骸骨』では一番初めに「食後の語らい」を置きました。
これは収録作品中もっともユーモアの要素が強く、〈怪奇小説あるある〉とでもいうようなエピソードがオムニバスに連続した作品です。英国式ゴースト・ストーリーのお約束を端的に紹介する側面があり、本書全体のガイド的な役割も果たします。2度目に読んだときには本書収録の他の作品を思い出して、にやりとするかもしれません。唯一挿絵が残されている作品なので、導入としての親しみやすさもあるのではないかと思いました。

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また、従来のジェローム読者にも、裏の裏をかいた驚きを楽しんでいただけるのではないかと思います。「あのジェローム」というイメージをすでにお持ちの読者が、「『ボートの三人男』とは違う〈異色作品集〉なんでしょう?」と身構えながら読んだときには、やっぱりあのジェロームだと思わせつつも、他の収録作品に期待を抱かせる巻頭作となっているはずです。

……ただこの作品、クリスマス・イヴのお話なんですよね。
酷暑のさなかに、クリスマス・イヴで始まる本。半年ほど早すぎたでしょうか。

せめてさりげなく、冒頭にちょっと書かれているくらいだったらいいのに、やたらと強調されているのですよね。数えてみたら40か所以上も「クリスマス」と明記されていて、もうごまかしようがありません。

 これはどれもクリスマス・イヴに起きることだ。そして、どれもクリスマス・イヴに語られることだ。幽霊物語を十二月二十四日の晩ではない他の夜に語るというのは、英語圏社会においては現在規制されていて不可能である。したがって、以下に記されている悲しくも正統的な幽霊物語の導入として、アングロサクソン文学を学ぶ学生に対して、これらの話が語られた日付、これらの出来事が起こった日付は、クリスマス・イヴであるなどとあえて告げる必要はないと思う次第である。
 それでも、僕はそうするが。
 クリスマス・イヴのことだった!

『骸骨』が刊行されるのは7月。何もこんなにクリスマス・イヴだと連呼しなくてもいいのに。夏の盛りに、クリスマス・イヴで始まる本。逆に涼しくていいよと仰っていただけたら救われるかもしれません。半年早いクリスマスプレゼントにもいかがでしょうか?

編集にまつわるここだけの話

「ここだけの話」といいつつ、前項は裏話感が少なかったかもしれません。何か編集作業中の心あたたまるエピソードとか、笑える逸話があればいいのですが、本書の訳者・中野善夫さんの本ではつねに意外なことがあまりにも当たり前に起こりすぎるので、もはや何も意外に感じないのですよね。

たとえば本書には「蛇」という作品が収録されていますが、校正中に窓を開けたら目の前に本物の蛇がいました。アオダイショウというやつだそうで、以下はその時に撮った写真です。(苦手な方は閲覧注意!)

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すぐにメールで報告したところ、「姿を崩さないように頭の後ろを撃ち抜かなければ」と中野さん。本書収録の「蛇」をお読みいただければ、その後の展開を想像してお楽しみいただけるかもしれません。

装丁について

装丁についても少し。すでにInstagramやTwitterで情報を公開しているのでご存じの方もおられるかと思いますが、本書のカバーは〈蠟引き加工〉という特殊加工を施しています。溶けた蠟を紙に沁みこませる技法で、濡れたような透明感のある質感に仕上がるのが特徴です。水や油、スレや汚れに強く、耐久性もあります。

蠟引きが生み出す独特の風合いは、さらに持ち主のもとで「育って」いくのも大きな特徴です。プラスチックとは違い、紙はシワや折れが生じる素材ですが、 蠟引き加工を施した紙のシワや折れには 「傷」というよりも年代物のような「味わい」 が出ます。とはいえ、「シワや折れ」に抵抗がある方もご安心ください。なんとアイロンをあてれば折れ筋のない状態に戻るんです(クッキングシート越しに低温設定でさっとあてればOK)。PP加工でもニス引き加工でもない、〈蠟引き加工〉だからこその、面白い特性ですね。

書籍としては珍しい加工方法で、弊社でも前例がなかったため(「蝋引き」が「蛸引き」と間違えられました)、印刷所・創栄図書印刷や製本所・ブックアートと打ち合わせを重ね、大和ロー引加工所の協力を得られたからこそ実現した大冒険でした。

このような加工をやってみようと決めたのは、本書が百年前に書かれた英国幻想奇譚だったからです。アンティークのように古風な趣を醸しつつ、新鮮な驚きを持って楽しんでもらえる本にしたい。そんなイメージを思い描きながら、デザイナーの岡本洋平さん(岡本デザイン室)に相談し言葉を交わしていくうちに、この装いが生まれました。
「変化そのものを楽しめるような本を作りたい」と岡本さん。読者の手に繰り返し触れることで趣きを増し、世界でただ一つの一冊となってゆく本に。実はアンティーク感を引き出す演出は加工だけにとどまらないのです。たとえば、カバーのタイトル文字にご注目ください。

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お判りいただけるでしょうか。よく見ると文字が幽かに擦れているのです! 加えて、ごく繊細なテクスチャーを全体にしのばせていることなど、手の込んだ技が細部に仕込まれていることで、複合的にクラシカルな風合いが創り出されています。このあたりの絶妙なニュアンスをお伝えするのに写真では限界がありますから、ぜひ実物を手に取って確かめてみてくださいね。カバーを外した表紙にもまた違った表情があるので、どうぞご覧ください。
内容の面白さに自信があるからこその、この装丁。読者の皆様に必ずやご満足いただける一冊と確信しております。

百年前に書かれた西洋骨董のような幻想奇譚集、『骸骨』。エイジングを楽しみながら、永くご愛読いただける特別な本となりますように!
                    (文・編集部 伊藤里和)

骸骨
ジェローム・K・ジェローム幻想奇譚

ジェローム・K・ジェローム著/中野善夫 訳

2021年7月21日発売
四六判・総480頁  ISBN978-4-336-07206-1
定価4,180円(本体価格3,800円)

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