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どの系譜にも自分がいない



ぼくです。


12月の中頃に顔面の帯状疱疹になってからはや1ヶ月、
まだまだ完治する気配がないうえ絵を描けるコンディションじゃないので療養がてらにつらつらと書いています。



ぼくはSNSではアート業界の人間をフォローしたり動向を追いかけたりっていうのはほとんどしないんだけど海外のコレクターの発信なんかは結構注視したりしている。

その人たちがちょこちょこ共通して口にすることがあるんだけど
「最近のアーティストは自分の作品を扱ってくれるギャラリーとか自分のフォロワーのウケを気にした作品を作りすぎで美術史の文脈とかを意識できていない。自分の名前が美術史に残るような作品制作の意識ができていない」
って言うんだよね。

要するに最近のアーティストはピカソだとかデュシャンだとかみたいに美術史上の意義だとか文脈だとかを意識した作品を作っていないってことを言っているんだけどまあ確かにそれは少しわかる。
どこのギャラリーに行ってもギャラリストとか作家自身のフォロワーにウケるタイプの作品ばかりでいわゆる教養や読解力を必要とする作品と出会うことがあまりない。コミック系の顔の”どアップ”か動物系かエンタメ作品かインターネット大喜利作品かくらいしかパターンが見られない、それがつまらなくてぼくはSNSで同業者をフォローしないしギャラリーにも行かない。



確かに美術を始めたての頃は美術史の系譜に自分も名を残したいという感情や野心はそれなりにあったんだけど今は正直そういう感情はない。たぶん。


作家個人でいえば石田徹也鴨居玲という天才の系譜に片足を突っ込んでみたいという願望はあるが美術史というマクロな視点での系譜に関してはまるで興味がない。


なぜそういう野心が消えてしまったのか、これは明確に理由がわかっている。

現代美術史に名を遺す偉人たちに憧れを一切感じないからだ。ここではあえて「現代」美術に限定しておく。


作品そのものの質がどうというより従来の美術史に対するメタ的な視点を提示しているか否かという観点ばかり。
頭でっかちで理屈ばかりが肥大化した面倒くさい大人たちの言葉遊び。
特に戦後のアートは本当にひどい。
それが現代アートの現場になってしまった。
そしてその作品に何億という値段が付く美術マーケット。
ボンクラの道楽としか言いようがない。
その金をもう少しまともなことに使ってはいかがか。

頭でっかちな文脈大喜利ゲームでウケることが評価基準になってしまう美術史のどこに憧れを抱けばいいのか、申し訳ないがぼくには理解できない。


美術の世界がスポーツや将棋のように最も勝ち上がり結果を残した人間が三冠王なり名人なりの称号を与えられその世界の系譜に名を遺す、そんな機構を持っていたのならぼくは美術史の系譜に名を残すことに言葉にはできない憧れを抱いていたかもしれない。
だが残念ながら現代美術史の系譜に名を遺すことにはそのような魅力などは一切残されてはいない。


数年前将棋棋士の渡辺明氏はインタビューにて「名人の系譜には私はいないのかもしれない」と答えたことがあって話題になったが、実力勝負の世界において名人という称号というのは特別な意味を持つものだ。
そりゃあそうだ、実力があるかないかが評価に直結するわけだからそこで得られる称号、そしてその系譜には何物にも代えがたい価値がある。
その系譜の中に自分がいるかいないかということはその道のプロとしてのアイデンティティーや人生そのものに関わってくるといっても過言ではない。
(ちなみに渡辺氏はこの発言の数年後に”名人”のタイトルを獲得している)


では、ぼくにとって自分がそこに名を連ねたいと思える○○の系譜とはなんだろう?少なくとも先に述べたような現代美術の系譜のことではない。
芸大にも行っていなければどこかの団体に所属しているわけでもないぼくにとっては難しい問題だ。
帰属意識というものがまるでないのである。
帰属意識なんぞまるでないぼくなのだがかつて芸術系の予備校に通っていたことがある。そこにいた仲間たちの大半は芸大に進み大学を卒業した今も芸術界の第一線で活躍している。強いて言うならそこの系譜になら名を連ねたかったかもしれない。
いや”かもしれない”ではない、名を連ねたい。名を連ねたかった。
現代アートの大喜利合戦とは比べ物にならない魅力がそこにはある。


とはいえ、いくら現代アートの系譜に興味がなくともプロとしてやっていく以上は結果的に何かの系譜の中に身を置かざるを得ない。どこかの系譜に記述してもらえる人間にならなければならないのだ、残念ながら。
ということで誰かぼくが退屈しないで身を置くことのできる場所を作ってください。お願いします。
これは急務です。



生きることで精いっぱいです。