生きづらさ

気づいたときには、なんとなく生きづらかった。

隣の席の男の子が貧乏ゆすりしているのが気になって、
テストを受けているときの静かな教室で
時計の秒針の音が気になって集中できなくて、
掃除の時間に掃除をしないでおしゃべりしている人が信じられなかった。

人が気にしないような些細なことが気になって
小さな音に敏感で
ルールが守られないことが何よりも嫌いだった。

こだわりは強いけど、楽しいと思えることは少なかった。

友達と話しているときも
「この子は本心で言っているのかな」
「こう言ったら傷つけるかな」
そう思って発言できなかった。
その場にいるのにいない感じがした。

人の悪口を聞いては
“自分はそう思われないようにしよう”
そう思ってますます口数が少なくなった。

何に対しても興味が持てなくて、ワクワクしなくて
休み時間に夢中になってドッヂボールをしたり、
恋バナに花を咲かせている人が羨ましかった。

羨ましいけど、自分もそうなろうとはしなかった。
正確には、そうなりたくないよね?
と自分に言い聞かせていた。

「○○らしくないね~」
こう言われると周りからの期待を裏切るようで嫌だったから。

「○○らしい」が何を指すのか正確にはわからない。

“自分はきっとこう思われているだろう”
という自分で勝手に作り上げた像に過ぎない。

でもその像を信じて行動することは
私の心を安定させた。

“人にどう思われるか”
を軸にすることで行動や判断ができた。

だから他者がいないと自分がどうすればいいのか決められない。
「好きにしていいよ」
そういう自由が1番苦手。

自分がどうしたいかで決めればいいってそれはわかっている。
でもできない。
20年蓄積された癖はそんなに簡単には治らない。

正体はわからないけど
何かから自分を守りたくて
傷つくことを恐れている。

“自分を取り囲むもの”
が気になって生きづらいのに
“人の目を気にしなくてもいい”
これも生きづらさは変わらないみたい。

誰かが決めたルールをみんなが守って、正しく守っていれば誰からも攻撃されないことが私にとっての生きやすさだったけど、
そんな時代は来なくて、自分でルールを作ってそれを信じて守っていかないといけない。

”個の時代”も案外難しい。

周りのせいにしないで自分が生きやすい環境を整えていかないといけない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?