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高3 現代文B・国語表現 #57


 『現代文B』(明治書院)は、平出隆「はじめての失敗」、畑村洋太郎「失敗に学ぶ」(1年次の国語総合で学習済み)、姜尚中「おまえはどこに立っている」の3本を、高3第1学期中間考査の範囲とした。

 テーマは「アイデンティティ」だ。高3生は進路選択の重要な一年になり、今までのんびり皆と同じように過ごしてきた時間の変容を迫られる機会となる。

 中学校から高校へは似たような学習内容になるが、この先は隣の席の子とも大きく学ぶことが異なり、数年後には各々が専門分野で活躍するようになる。

 ところが、不安や孤独に耐えられず、決断を先延ばしして、主体的に調べて考えて行動することができない子が一定数、いや半数くらいいる。高1の頃から進路指導の機会は多く与えてきたし、オープンキャンパスなどにも数多く参加させてきた。

 残念なことに、それらのことも、どこか遠い未来のお話のように捉えていて、皆も同じように何も決断できていないはずで、本当に自分が夢中になって取り組みたいことなど見つかっていないのだから、大学4年間で探せば良いだろう、とぼんやり考えたまま、この2年間を過ごしてきたのだ。

 畑村洋太郎さんではないが、「痛い目に遭わないと」学べないことは実際には多い。彼らに接する大人のひとりとしては、この先は崖があるのに、横を向いてどんどん歩いていく姿を見ると、「先のことを予測して、前を向いて歩かないといかん!」と声をかけずにはいられない。

 さまざまなアプローチをしてきたが、これはもう授業で扱うしかないと思い、上の3本の選定となった。

 平出さんのエッセイは、アートだなあと感じさせる文章で、認知バイアスから逃れられない心の仕組みをさらりと叙述しており、「わかっちゃいるけど止められない」について学ぶことができる。子どもたちにも、どうして止められないんだろうね、と問いを投げかけてみて、考えるきっかけを作った。(進路決定を先延ばししている君のことだけど、、、というメッセージも込めて)

 姜尚中さんのエッセイは、人生の「モラトリアム」について書かれたもので、自分はどのように生きていくのかを決定するのに、28歳までかかったことや、アルブレヒト・デューラーの自画像からインスピレーションを受け、どのように決心したのか、が紹介されている。

 とは言いつつも、この文章は、在日朝鮮人問題について理解がないと難しいので、姜さんと同世代の人たちが過ごした韓国社会はどのようなものだったのかを学ぶ必要があると思い、ある映画を紹介した。(韓国に憧れる若者が少なからずいるので、現在の韓国との違いを知ってもらう意味もあった。)
 
 その映画とはユン・ジェギュン監督『国際市場で逢いましょう』2014年。当時、1400万人が視聴したと言われる作品で、叙事詩のように1950年以降の韓国社会を描き出している。世代間の価値観のズレや、家父長制が過去の遺物となる様子など、新しい世代の到来によって失われるものが丁寧に描き出されていた。

 姜尚中さん自体は在日朝鮮人2世であり、熊本で暮らしていらっしゃったので、当時の韓国社会激変の渦中にあった訳ではないが、日本は日本で、韓国・朝鮮人、中国人の戦後処理問題を有耶無耶にした分、酷い目に遭ってきたことは想像に難くない。「在日朝鮮人問題 日本大百科事典」で、小沢有作先生の解説があるので、そちらを読むと、かつての日本社会が彼らをどのように扱ってきたかがよく判る。子どもたちにもこちらを薦めてみた。

 死と隣り合わせの時代を生きたデューラーが28歳で画家として生きていく決意をしたのは、何者にかなること、生きていく使命を理解することを明確にしたからだというメッセージを、遺書代わりに描いた自画像から姜尚中さんは読み取る。

 時代は違えども、姜尚中さんも同じように居場所のなさを感じて、自分の未来に希望を持つことができなかった状況が重なり、社会の差別構造を明らかにするためには政治学だと考え、研究者としての人生を選ぶことになったのだった。

 このエッセイを読んだら、あぁ、自分たちは恵まれた環境にいるのだから、何にでもなれるぞー!と勇気を得るに違いない、と無邪気に考えることは出来なかった。なぜなら、彼らはチャレンジしないことで現在の地位を保持するという選択が可能だからだ。内部進学のダメな点が露呈してしまう。

 次の揺さぶりは「失敗せよ!」だ。
 「Fail fast!」はシリコンバレーの合言葉のようなものだが、その趣旨を理解させるために、平出隆さんと畑村洋太郎さんの文章を扱うことにした。
 
 子どもたちは失敗をしたくないので、当たり馬券だけ買いたいので、人間関係を拗らせたくないので、決して無理はしない。無理をしないことで失うものを勘定に入れることもしない。ただただ変化を恐れる。失敗した時のリカバリーの方法を知らないからではない。思うような結果を得られなければそれまでの努力は無駄になってしまうので、挑戦はしないと、大きな岩のように、心に固く決めてしまっているのである。

 畑村さんは、失敗を「恥ずべきもの、隠すべきもの、忌み嫌うべきもの」と捉える日本文化が原因ではないかと指摘する。
 
 今でこそ「しくじり先生」のようにオープンにして、他山の石としてほしいというメッセージを発することもできるようになってきたが、残念なことにまだまだ広く社会に浸透しているとは言えない。
 
 受験で失敗する、就職活動で失敗する、結婚で失敗する、転職で失敗する等々、ライフイベントには付きものであるが、私たちの社会はそれを汚点として記録してしまい、挫折感を残してしまいがちだ。再度成功した人間だけが笑い話にしているのであって、どん底にいる人はさらなる底へ落ちてしまうことの恐怖を拭い去れない。なぜか?周りの人たちの成功が目に入ってしまうSNSや世間体があるからだ。

 失敗にもさまざまな種類があり、すべてが「成功のもと」になる訳ではないが、ひとつ言えることは、確実に「場数を踏む」ことには繋がる。これはゲームと同じ感覚で、ログインボーナスや経験値を積むことと同じだと考えてみると良い。

 どこかで大きく考え方の転換、姜尚中さんいわく「コペルニクス的転回」を経験しないと、自分の人生を拓いていくことはできない。どうだ?覚悟はできたか??

 というまとめで中間考査に突入した。

イマココ........................................................

次回は、日本語の特性について考えてみようというテーマで学んでいく。
 
 


 

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