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Kokugo_Note 現代文B・国語表現 #54 番外編

高3 第0学期を目前として

 定期考査を無事に終え、成績処理がひと段落着き、子どもたちもそうだが、教員側もほっと一息の期間にある。今は短縮授業期間なので、各担当者の裁量に任されており、それぞれの目的意識に応じて、授業展開を行なっている。

 私は長期休暇前の短縮授業は、主に長期休暇の宿題に充てるようにしている。そのため、宿題は他校より多めに設定しているつもりだ。子どもたちは宿題を学校にいる時間帯から行えるので、喜んで片付けようとするし、また解りにくい問題が出てもすぐに質問できるので、サクサク取り組む。宿題の仕方や狙い、取り組み方についてもレクチャーするので、ただ冊子を与えてやってこい形式ではない。その点である程度、好評を得ている。さらに、次の春季休暇の課題の範囲を教えておくと、今、取り組む方がお得だと考えて、意欲的に向き合ってくれる。一石三鳥の効果がある。

 私の方はというと、子どもたちでつまづいている子がいないか、確認したり、第3学期の単元教材の展開について作戦を立てたり、それに関する宿題を作成したりしている。先生が目の前で勉強している姿も見せられるので、良い学習環境が出来上がる。そのような中で、先日受けた質問の話をしたい。

 高2の冬と言えば、自分の進路の方向性を確立する時期にあるので、自分は本当にこの道で良いのかどうか?と悩み始める子も少なからずいる。夏目漱石『こころ』の「K」ではないが、「進んでいいか退いていいか、それに迷うのだ」というところだ。もちろん「退こうと思えば退けるのか?」などと恋敵を打ち倒そうとする、残酷な「私」の台詞を口にしたりはしない。なぜ彼らは迷うのかと言えば、昨今のコロナ禍による大学生の姿を見ているからである。


何のために進学するのか?

 大学生の、部活動の先輩からこういう話を聞いたという。大学2年間はリモート授業で学生生活がままならなかった、その上の先輩によると、インターンや就職活動もかなり深刻な定規で面接さえ受け付けてもらえない企業が多いらしい、海外などを旅をして見聞を広めて、大学生活を充実させたかったのに、アルバイトもシフトを減らされたりして、窮屈な生活を強いられている、就きたかった仕事も人員整理が報道されていて、大学進学でなくても良かったんじゃないかと。

 このような話はかつてのリーマンショック、2008年頃にも聞いたことがある。その翌年の進路指導では専門学校や理工系への進学が増えたことに大いに驚いた。4年後の景気に振り回されるくらいなら手に職をつけさせた方が後々、自分の人生を主体的に選択していけると考えた保護者が多かったのだ。今回のコロナ禍では、保護者もその憂き目に遭っているケースが多々ある。人流が滞るために取引が減り、給料は抑えられ、出勤日も制限されたりしているようだ。そのような親の姿を間近で見ている子どもたちが、右顧左眄してしまうのは無理がない。

 とはいえ、人生は続いていく以上、何らかの哲学を持って立ち向かっていく必要がある。そのために原点に立ち帰らなくてはならない。世間がそうだから、親がそう言うから、皆もそうするから、などという浮舟人生ではなく、「なぜそれを選ぶのか?」という賭博的人生である。

 ※ 人生はギャンブルであると考えていて、少ない負けでゲームを進めて、最後には大きな手を狙って回収したら良いというスタンスなのです。

 さて、「なぜ進学するのか?」が解らない場合は別の問いを立てると良い。「自分が感動したものは何か?」である。何かに大きく心を揺さぶられる経験というのは貴重なものだ。それが、ゲームでも、友だちの発言でも、たまたま入って食べたラーメン屋のスープでも何でも良い。授業の中にあったら嬉しいのは先生側の願望だが、この際はどちらでも良い。

 感動するというのは、今まで生きてきて一度も体験したことがなかったことや、体験してきたが改めて気付かされたことなどに依拠することが多い。自分が感動したからといって、他の人が感動するとは限らないではないかと臆病にも否定に走る人もいるだろう。若い人たちにはありがちなことだ。この視点から、その人の「世間の射程範囲」がどのくらいかがこれで判る。自分が感動したことは世界中で同じように100万人くらいはいるはずだという決めつけから物事は始めるべきなのだ。
 ※ 私は概算を多く見積もってしまいがちなので、社会思想家シャルル・フーリエに倣って、半分で考えることにしよう。50万人ほどいるはずだ!

 その50万人を対象とした戦略を立てれば良い。なぜ感動したのか?どういう条件があったから感動に至ったのか?それまではなぜそのことに感動できなかったのか?どうしたら自分も感動を与える側に立てるのか?どういう知識・技術・経験などが必要なのか?それらはどこで手に入るのか?学費はどうやって賄うことができるのか?同じように考えている仲間をどうやって見つけたら良いのか?などなど、自問自答してみる。「考える」とは自問自答することなので、当然、どうやってその解を探せば良いかの知恵が必要になる。そのために学校には先生がいる。それぞれの教科の考え方の傾向から、先生ならこの状況をどうやって切り抜けるのか、その意見を聞くことができる。今回は国語的発想で提案してみたいと思う。

何が私を満足させるのか?

 「働く」ということの目的はその対価を得ることにある。自分がこれしたいと思ったところで、雇い主がそれよりもこちらを優先してくれという現実に度々直面するのは当然のことだ。今まで生きてきた経緯が異なるのだから、思惑が異なるのも、解り合えない境界線があるのも、前提として受け止めるのが社会人である。それらの制約の中で、「何が私を満足させるのか?」を常に考えなくてはならない。満足の見出し方を自分で設定し直さないといけないのだ。それは与えられるものではなく、自分で調整を重ねてチューニングするものなのである。そうなると、満足できることにも優先順位が付けられるので、これができていれば70点、これもあれば80点などと査定できる。5もし30点などというスコアになった場合は、きっと仕事を行う上で自分が選択できることよりも、指示に従うことの方が多い時である。つまり辞めることを考えた方が良い。ギャンブルでいう「損切り」である。

 選択権が失われれば主体性が損なわれ、他人に人生を振り回される人生に変容してしまう。何のために生きているのか解らなくなってしまうので、精神的に追いやられるのだ。最初に述べた感動に出会うための感性が麻痺してしまうので、生きる喜びが得にくくなってしまう。それでは何の意味もない。感動から始まった旅は、感動を追い続けることで、充実した人生が約束されるからだ。

 私は、何をしたら満足できるのかを知っている。無制限に本を買い、考えをまとめてPCに打ち込む時間を過ごし、美味しいコーヒーを飲み、時折、美味しいお肉を食べたり、温泉に入ったりするためのお金があれば満たされる。養うべき家族もいるので実際にはそれだけでは足りないのだが、本質的にはこれだけである。
 ※ 本とPCとコーヒーとお肉と温泉は代金不要なので好きなだけどうぞ、という職場であれば、仕事は全く苦にならず、授業の質はかなり高まるのは間違いない。

 学校の先生は比較的この条件を満たしやすい。仕事中に学術本を読んでいても叱られない。図書室には希望図書をどんどん排架してもらえる。(独身時代の貯金から月に40,000円ほど購入していて、職場に届けてもらっている。)コーヒーを飲みながら研究しても問題ない。PCに向き合って文章を作り、子どもたちに投げかけたり、レスポンスを得たりして考えを深めていくのも仕事のうちと見做される。お肉と温泉は休暇に行くしかないが、何とかなる。御多分に洩れず、ブルシットジョブは山ほどあるが、個人の裁量に委ねられることが多いので、誤魔化しながらうまくやることもできる。

 そういう話をすると、へぇー?とびっくりされる。長所とは、他の人が苦手なことを自分は何の苦もなくできることだとしたら、私にとっての読書はそれに該当するのかもしれない。感動することも読書の中にあり、今も活字の山を採掘しながら宝を探している。いずれ書き手の側に回ると思うが、今は家族の時間を特に大切にすることで満足を得ている。

 自分で選んだことは、自分に返ってくる。だから、将来のことは偶然に左右されることが多いので、方向性だけ定めて、汎用性のある技術や知識を学び、どのような職業にも対応できるような、個性を磨いていくことが肝要なのだ。ジョン・D・クランボルツ博士の『計画的偶発性理論』を参照にして考えてみてほしい。

 当たるも八卦当たらぬも八卦、の通り、うまくいかない時に落ち込んでいる暇はない。うさうまくいかないことも想定して、次の一手を、さらにその次の一手を打てるようにしておきたいものだ。その時に有効なのが趣味なのである。
 むしろ、趣味を極めるために、高校に来て、授業の知識などを援用したいと考えられないといけない。

趣味を持て!

行き着く先はこうなのだと思う。お小遣いを全部使ってみて、必要なものを買うためにアルバイトをしてお金を貯め、散財して、またやり直す。そう言う生き方をするようになったら、良くも悪くも「生きている実感」が得られるのだと思う。競馬場やチャンスセンターに行くのではない。日々の分岐点に意識を向けて、選択を繰り返すだけである、ギャンブラーの集中のように。

 こういう話を改めて保護者会でする予定である。少し眠たくなってきたので、とりあえず今日はここまで。読んでくれてありがとうございました!


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