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Kokugo_Note 高2 現代文B・国語表現 #49


【長谷川眞理子「コンコルドの誤り」から学ぶこと その2】

※前回、失念していたが、念のため定義を明確にしておこう。「コンコルドの誤り」とは、「過去の投資の大きさによって、将来に関する意思決定が決まると、思い込んでしまうこと」を意味する。行動経済学でいう損失回避効果(サンクコスト効果)、つまり人は得られるものよりも失うものの方が大きく感じるというものである。


まず、親子間の話し合いで重要なことは、
「コンコルドの誤り」という認知バイアスに人は陥りがちであることをまず把握することである。自分たちの置かれた環境を理解しないと、主体的に判断して行動することはできないからだ。

また、非常に重要なことだが、意思決定の判断に「過去の投資」を活用してはいけない訳ではない。うまく行くことはそのまま続けるべきだが、このままでは未来の展望が見えてこない、または、大きなリスクを抱え込んでしまう恐れが大きいのに「続けてしまう」ことを問題視すべきだ、ということである。


長谷川眞理子さんは、「現在のオプションと将来の展望によって」意思決定はなされるべきだと述べるが、この誤りを犯してしまうのは「人間の思考形態に深く関わる」のだろうと、述べている。


現在のオプション(選択肢)とは、今できることは何か?手持ちのカードは何か?を確認することを意味している。
そして、本質的な「人間の思考形態」とは何なのかを模索する必要がある。



ひとつずつ考えてみよう。

▼ まず前者である。
自分はダンスが得意だとか、誰かの手伝いをするのは苦にならないとか、漢字がよく書けるとか、何でも良いのだが、少しでも「自分のできる」ことに着目することで、手持ちのカードが何なのかを確認できる。
それほど大したことではないのに、それらを「自分のできること」に勘定して良いのだろうかと戸惑う人もいるかもしれない。

良いのである。

人は自分の周りの人たちの常識の中で、世の中の基準は作ってしまいがちであるが、実はいくつもの階層に、レイヤーに分かれていて、「自分のできること」は「誰かのできないこと」であったり、「自分のできないこと」は「誰かにとっては朝飯前」であったりする。
できる範囲で自分の力を発揮して、できない範囲は誰かを頼れば良い。
その中で、自分もその誰かも「到底手に負えないこと」に直面することもあるから、その時は一緒に協力して打開策を考えていけば良いだけのことなのだ。

しかし、高校生でも、そのように考える練習をしてきていない子が多い。そうして、自分の比較する対象を簡単に間違えてしまい、もうダメだー、お手上げしてしまう。

例えば、野球を小学生の頃から続けてきた子が、自分は大谷選手と較べてしまう。甲子園に出場する他校の友人と較べて、自分はまだベンチ入りもできていないと考えてしまう。次の夏の大会で、野球人生は終えようとあっさり身を引いてしまう子は予想以上に多い。果たしていったい彼らは、野球に何を求めていたのだろう?

野球が好きなら、ずっと時間をかけてきて夢中になれるものだったら、今後、指導者の道もあれば、野球を知らない人たちに魅力を伝えに行くこともできる。会場運営についても、何も知らない人と較べたらずっと詳しいはずだ。

そうすると、例えば、野球の楽しさを知らない、普及していない海外の国に指導に行こうと、意思決定ができる。
現在のオプションから将来の展望が見えてくる。
そこで、行き先の国の言語や文化、社会的課題、先進国として支援可能なことは何かなど、渡航までに学ぶべきことが見えてくる。
そうやって、進路先を検討していけば良い。

もし人生が2度あるのなら、1度目は父ちゃん母ちゃんのいうように普通に大学へ進学して、卒業したら就職して、初任給で恩返しのディナーを招待して、プレゼントをあげて、お礼を述べるというのも良いかもしれない。
けれども、一度しかないから、自分のしようとすることをどうか応援してほしい。
そうやって、自分の人生を切り拓いていくのがこの年頃ではないか。

手持ちのカードは人それぞれである。
父ちゃんもカードを持ち、母ちゃんもカードを持っている。その中でやりくりしながらここまできたはずだ。失敗したこともあっただろうし、そこから乗り越えてきたこともあっただろう。そうやって、人は強くなっていくものだし、自尊心を保持できるようになるのだ。
(失敗を恐れていた「山月記」の李徴は自分のカードを見失っていたから、不幸に陥ってしまった)

そうやって、子どもたちは、勝負していかなくてはいけない。傷つかずには大人になれないからである。


では、父ちゃん母ちゃん側はどう対応していけば良いのだろうか?
「本気でぶつかれば本気で応えてくれるはずだ」「血のつながりのあるわが子なのだから、きっと解ってくれるはずだ」「うまく行かない時があったとしても、いつかそれが貴重な人生の糧となるはずだ」などなど。

結論から言えば、やはりこのことも「公正世界仮説」という認知バイアスと言える。
最近の研究では、この認知バイアスは、自己肯定感を高めてくれるものだという調査結果もあるので一概に否定するものでもないが、それが絶対だという認識は質さなくてはならない。
当たり前のことだが、うまく行く時もあれば、うまく行かない時もあるからである。
世の中は不合理なものだし、経済は感情で動いているし、それぞれの正義が衝突し、大きく偏って政治は行われているし、利害得失に食指を動かさない人々も大勢いたりする。

人生経験が豊富な親がそれらを知らないはずはないのだが、なぜか子どもの進路については単純化して、損をしないように、より無難な生き方を推し進めようとしてしまう。

いつまでも子どもを子どもの檻の中に閉じ込めないで、ひとりの人格として尊重してあげることが何より大切なんですよ、お金のことなどいろいろな課題はあるかもしれないですが、ひとりの人間として向き合ってあげてください、そうしたら、子どもも親の変化を読み取って、自分のすべきことに自覚的になります。

いつもこうやって三者面談を終える。
不登校になって転学する時もやはり同じだ。
ひとつの学校を選んだら、ずっとそこにい続けなくてはいけない訳ではない。ひとつの部活動を選んだら、引退まで我慢しなくてはいけない訳でもない。会社についても同様だ。

自分が本当にしたいことは何なのか?
何をしていれば幸せでいられるのか?

▼後者については、損失回避行動を行なってしまうのが、人間だけだという長谷川さんの指摘は、結局は「個体の維持」を最優先してしまい、責任追及から逃れるための弱さに起因すると考えるのが妥当だろう。

例えば、もしあのまま東京オリンピックが行われなかったとしたら、そして開催中止にした時に、もしコロナ感染拡大が起こらなかったら、誰がその損失の責任を取るのか、、、という恐怖感が政府与党にはあったはずだ。

だから、痛み分けという、本来ならあり得ない方式で、可視化できるメダルと、テレビ観戦しているはずの市民たちがコロナ感染したところでそれは自己責任だという押し付けで乗り切ろうとしたのだろう。

実際には、全国で300人だった昨年4月の感染者数は遠い過去になり、毎日、各都市で2,000人以上数えられることに慣れてきて、入院できない人たちが数万人に及ぶのにも、不思議と思わないようになってしまっている。

個人の進路ではなく、国やこの惑星の進路を考える上で、本当に、「コンコルドの誤り」を繰り返していないか、確認していくことが必要不可欠になっている。東京大学の出題の意図は、このようなところにあったのではないかと思う。

こういう話をして、この単元はクロージングすることにした。

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