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KokugoNote 高1国語総合 読書について 番外編

 久々の投稿になる。

 長期休暇前になると、読書課題を与えるのが常だ。図書は自由に選んでよいというのではなく、授業の一環から連なるテーマで、こちらで選考している。例えば、夏前は、自己の本質をテーマにした短編小説や評論を扱っていたので、奥田英朗『我が家のヒミツ』を選書した。学校で一括購入して配布するスタイルだ。一割引きで購入できることと、学費から捻出されるので、新たな負担感も与えず、同年齢集団の共通体験として、子どもたちの対話促進にもつながる。(かつてと違い、同じTV番組、ドラマ、マンガを視聴することが少なくなっている)

 今回は、志賀直哉「清兵衛と瓢箪」、内田樹「働くことの意味」を扱ったので、将来の仕事観、価値観の違いを親子それぞれの立場でどう捉えるかという課題で図書を探した。結果、門井慶喜『銀河鉄道の父』に決定した。

 ところで、子どもたちに関わらず、読書人口が年々減少している。読書よりも安易に得られる娯楽が増えたことがその一因だ。私はなんだかんだと毎月3万円ほどは書籍を購入することがあるが、世の中では少数派らしく、よく驚かれる。その驚きにこちらもびっくりさせられる。知りたいことを体系的に知ろうと思うのなら、読書以外には講演会に出向いたり、セミナーに出席したり、講義を受講したりするより他にないと思うのだが、多くの人々はどうやらそう思わないらしい。教養が楽しいものだと理解されないのは実に不思議なことだが、「勉強」として見られてしまうのは困ったことだと思う。そこで、「読書は何のためにするのか」というスライドを作成してみた。ここでは、活字のみ転載しようと思う。高1を対象にしていることと、大阪の学校でもあるので、すべて猛虎弁で再現することにした。本当なら音声動画で良いのだが、活字慣れをしてほしいという強い願いがあるので、読ませることに特化したのだ。(筆者は生粋の大阪人ではないので、多少の違和感はご容赦願いたい。)そういう投稿をしてみる。


1.なんで読書すんの?
  毎度、おおきに!学校ちゅうところは、読書を大事にせなあかん!という理念があるんや。せやから本を休み前に皆に配んねん。なんでや思う人もおるやろ?しゃべるからちょっと聞いてんか。
文字を見るのもえらいわ、興味ないんやさかい、読めんでもしゃあないがな、そういう声もよう聞くもんや。ちゃう!〈学校〉の役割を教わってへんかったんかって、先生、えらいびっくりしてもうたやないか。目が飛び出るかと思うたわ、ほんまに!

 よう聞きや。〈学校〉ゆうところはな、ひとりで勉強していたら絶対に手を付けんようなことを教え込むところなんやで。えらいところやろ。苦いピーマンやウサギさんに分けてやりたいニンジンをたっぷり食わされるようなもんやで。でも、栄養を考えたら、あいつらえらい奴なんや。たまげてしまで、ほんまに。

 でもな、〈勉強〉いうんは、「勉め強いる」(つとめしいる)いうことでな、気が進まんでも何かの目的のためにやるもんなんや。まさか大将、目的なしで学校に来てはる訳やないやろな?
その〈目的〉って何や?何もええ成績取ったらええゆう話やないで。順位を上げることやないねん。なんせ大阪府の同い年は65,000人もおるんやで。そんなんは別にええやで。ほんなら、どういうこっちゃ?って首をひねるあんちゃんもおるんやないか。目的をいつも持ってる奴ばかりやないからな。せやかて、「できない理由を探す」のは、かっこええもんでもないで。

 憶えてはるやろか、志賀直哉「清兵衛と瓢箪」の先生、あの師匠さんと同じ話すんねんけど、地元でやっていくこと・地元から離れてやっていくこと、どっちもできるようにするのが、先生らの仕事やねん。地元は居心地がいい人が多いと思うねん。ツーカーで通じることも多いからな。あんまごちゃごちゃ説明せんでええやろ、こっちが言わんでも解ってくれんねんな。そりゃ楽な話やで。

 でもな、それだけやったらあかんねん!知らんことやできひんかったことを乗り越えていくんが、成長っちゅうもんやからな。「知らん・できひん」でおる奴は、赤ん坊とおんなじや。手のかかるやっちゃ。学校通うんもそのためなんや。新しいこと学ばんかったら、今まで知らんかったことさえ解らんかったやろ?小学校の30センチものさしで世の中の全部は測れやせんのや。ものさしも大きくせんと!自分が正しいと思い込んでしまったら成長はないんや。正しいか間違っているか、白黒ハッキリ付けられるほど、世の中、簡単なものやないからな。

 そういうんが解らんと、大人にはなれへんのや。〈学校〉もいろんな友だちがおるやろ?自分は考えもせんかった意見を言ったり、行動をしたりする奴から影響受けたりするやん。知らん間にそうやって、〈多様性〉を身に付けていくんやなあ。えらいなあと思うで。大変なこともあるけど、〈外の世界〉を知るゆうんは、自分の器を大きくしてくれんのや。それを簡単に仕入れることができんのが、〈読書〉っちゅう訳や。これを言いたいねん。
じゃあ、どうやったらええねん?ってなるやろ?それは案外、簡単なんや。私生活でも時間割を作って、読書の時間を作ったったら、ええねん。あとは、自分との約束を守れるかどうかや。


2.なんで自分の読みたい本だけやったらあかんの?
 そら、あかんがな。自分の周りにイエスマンばっかり固めてどないすんねん!何がほんまなんかわからんようになってしまうで。他の声を聞けんかったら、何でも俺に関係ないわって思うようになるやん。
例えばな、街角アンケートで100人に総理大臣を支持するかしないかを訊ねて、95人が反対して、5人が賛成したとするで。でも、自分のフォロワーやいつものTV番組が少数派の5人だけの声を拾って、他の95人の声を無視してる可能性もあるやんか?5人の声ばかり聴いてるようなもんやで、自分の読書の偏りっちゅうんは。そりゃ危険や。居心地が良い分、ほんまハマってまうからな。

 「そんなことあるかいな、なんやかんや言って、ちゃんとしてくれはるで、作家さんも放送局も。」っていう人もいるやろな。でも悪い連中もたくさんおんねん。チェックせなあかんねん、そやないとな。騙されんねん。法律と一緒や。弱い人の味方になってくれるのが法律やないで。法律を知っている人の味方になるのが、法律なんや。だから悪い連中も法律をうまく使いよんねん。厄介やな。

 「権利の上に眠るものは保護に値せず」ちゅう言葉もあるくらいや。民法166条の時効消滅に関する根拠やな。みんなも先生もな、基本的には国に護られてんねん。でも偏った世界にいるとな、それさえも解らんようになるんや。選挙にも興味ないし、政治なんてよう解らんし、でいたらどうなると思う?自分たちに都合のいい法律だけ通すようになるんやで。何でも興味持たなあかんねん。

 「知識はいつでも力になる」ねん。フランシスコ・ベーコンっちゅう人の言葉や。自分の考えだけやない、いろいろな立場で考えなあかん。知識を立体的にするんやで。数学のX・Y・Z軸みたいにな。今回のテストで、「先生と生徒の価値観の違い」について書いてもろうたときにな、ある子がこんなことを書いてたんや。先生はえらい感動してしもうたで。ほんまお利口さんやなあってびっくりや。「『こんな問題、将来使わん』という先生がいるけれども、それなら問題を解くよりは、その問題の意図や考え方を教えてほしい。」その子はそう言うんや。問題が役に立つ、立たへんちゃうねん。学んでいる以上は応用が利くようにしたいねん!そういう思いが伝わってきてな、ええなあって思ったんや。

 読書いうんも、意図や考え方を身に付けるために行うんやで。何の気なしにするんやない。そういう姿勢で臨んだらな、「えー、こんなに分厚いの無理や」とか、「私、本読むの苦手なんです」とか、「賢治のこと、興味ないっす」とか、そういう表面的なことは全く関係なくなるんやで。なんせ何でもかんでも「意図や考え方を学ぶ」に変換できるからな。日常が今までとは違って見えるようになる訳や。

 例を挙げるとな、こういうこっちゃ。なんやよう解らん理由で叱られるとするやろ。普通は気分悪いわな。それはそれでええねん。でも、その後や。いったん吐いた言葉は消えんからな。余計なことを言ってしまったりするやろ。ちゃうねん。「意図と考え方」や。分析せなあかんねん。まともに正面から受け止める奴があるかいな。

 イライラは、なんで点火したんや?お腹空いてんのか?あいつの感情はどういう仕組みで動いとるんや?そうやって全体を見れるようになるんや。でも気を付けな、あかんで。仕組みが解ったからといって、説明して伝わるかどうかは別問題やからな。養老孟司『バカの壁』新潮新書に詳しいから読んでおいた方がええ。400万部売れた本や。 
いったんまとめんで。いろいろな角度から考えられるようになるには、いろいろなジャンルの本を読まなあかんし、合わんのならなおさら、なんでなんか、考えなあかんっちゅう話なんやな。



3.読書したら、いったいどうなんねん?               
 さっきと結構重なるけど、なるべく違う角度から話してみようと思うで。結論から言うとな、そんなすぐには、ものの見方は変わらんけど、だんだん今まで見えへんかったものが見えるようになるねん。ある人が言うてたことや。受け売りや。たくさん文字を読むことになると、知らん言葉を勝手に知ることになるやろ。解らんかったら、誰かに聞いたりするやんか。道に迷ったときみたいにな。そうしたら、だんだん道を憶えていく訳や。言葉も一緒でな。なんや知らんうちに、読めるようになったり、意味が解ったりする訳や。

 そんなに意識している訳ちゃうねん。自然と読めるようになるねんな。ほんなら、「見えてくる」ねん。あ、これのことかって気付くことが増えてくるんや。後から実感するから、なんやびっくりしてしまうんや。それをカメラに例えて「画素数が増える」ゆうた人がいたんや。昔のカメラみたいなもんや。めっちゃ、もやっとしとるんや。それはそれで味があるんやけどな、ちゃんと見たい時ってあるやん?それが見られへんねん。ぼやけてるから思い出されへんねん。言葉をたくさん理解できると、イメージが浮かんでくるし、「見えてくる」んや。辞書で調べるんが習慣になってくるで。先生はよく「GOOGLE 画像検索」でイメージをつかむようにしてんねん。

 他には、さっき紹介した養老先生が言ってはったことなんやけどな、「知ると見え方が変わる」んや。例えば、重い病気にかかって明後日までの命とするやろ。窓の外にある花が咲いてたとするわな。何もなかった時は明日も明後日もずっと続くと思ってるから何とも思えへん。でも2日後にこの世を去ると解っていたら、その花は最後に見る花かもしれん。めっちゃキレイなんや、その花は。灰色の世界の中でひとつだけ色が付いているようなもんや。命のリミットを知ることになったら、きっと大きく変わってしまうんや。「知る」っていうことはそういうことや。今までの感じ方とはちゃうねんな。考えてみたら別に新しいことを言ってる訳でもないんやで。

 昨日の自分と今日の自分は違う存在なんやからな。細胞も入れ替わってるし、経験も増えてるし、感情も揺れ動いて、成長してんねん。読書はその成長を加速させるもんなんや。漫画の『ドラゴンボール』で言えば、「精神と時の部屋」に入るようなもんやな。講談社の広告にあるように没頭するんやで。その間に変わんねん。


4.読書は続けなあかんの?
 続けなあかん!っていう人もいるかもしれんが、先生は別にそう思わんねん。強制されるとしんどいからな。例えば、先生は、毎月3万円くらい本を買うけど、全部読み切ってる訳でもないねんで。人でもそうやけど、本でも「このタイミングで」っていう出会いがあんねん。その時にその表現がグサッと刺さるんや。全部読む必要はないねん。その瞬間だけが欲しいんや。それでええねんで。何も悪くないねん。いつか全部読むときが来るからな。人は成長するってゆうたやろ。成長に応じて、欲しいものも変わるんや。物だけやない。言葉もそうなんや。その言葉を求めてるんや、先生も。頭の中でな、よくお気に入りの楽曲がぐるぐる流れる時があるやろ?あれと同じや。言葉もぷかぷか浮かんでいて、それが自分の見ているもの、聞いているもの、感じているものにつながるねん。

 そういう積み重ねがあって、列車内の吊り広告も、ふとしたSNSのタイムラインも、だんだん見えてくるんや、自分とのつながりが。そうするとな、社会の動きと自分が連動してるんが解るようになるんや。
教科書の話と自分の生活が今は別々のもんやと思ってるやろ?だから、定期考査もギュッと憶えてパッと忘れてしまうねん。関係がないと思い込んでいる限りは、すぐに忘れてしまうんや。あかん。教科書の話と自分の生活が今は別々のもんやと思ってるやろ?だから、定期考査もギュッと憶えてパッと忘れてしまうねん。関連付けられるようにならんと、勉強も「やってる感」しか残らんのや。そうするとな、「学校の勉強は役に立たん、はよ卒業したい、テストは嫌や」になってしまうっちゅうんも無理はない話やで。

 ええか、順序がちゃうねん。学校の勉強を優先するんちゃう。まず読書なんや。正確には読書の前に体験が必要や。体験ゆうても、海外留学したり、劇の主役を張ったりとか大きなもんやないで。ゲームに夢中になったり、ショップの商品陳列を眺めたり、流行に飛びついたり、それは何でもええねん。門井慶喜はんの小説『銀河鉄道の父』にもこういう台詞があったやろ。「生活はするもんやない、作るもんや」。そういう意識があるかないかやねん。意識するんや。なんでそないなってんねん?と考えるんや。毎日の生活も、人生を築く大切な体験のひとつひとつなんやで。その中で、あれ?なんでやねん?と思うことを探すこっちゃ。

 例えば、あれほど流行したタピオカは、ほとんど廃(すた)れたやろ?なんであれほど流行ったんや?調べたら大正2年には日本でも大流行しとんねん。別に新しい飲み物でもないねんで。でも、定期的に流行るねん。そこで考えるんやで、どういう法則があるんや?そういう習慣を身に付けるとな、教科書も何かの法則が働いとんねん。

 国語でも思うたんちゃうか?思春期の主人公がやけに多かったやろ?授業の次の作品とテーマも関連づけられてたやろ?さあ、戻ってきたで。「意図と考え方」や。ええか、そういうことに気付けるようになるには、意識的な体験と読書が必須なんや。読書いうてもいろいろあるわな。娯楽小説もあれば、お堅い学術本もあるで。先生らの仕事は大学への準備教育っちゅう側面もあるからな、どうしても学術書に誘導しがちなんや。みんなも進んで読むもんちゃうから、紹介せんとあかんちゅう使命感もあんねんな。でも、娯楽小説も大事なんや。感情移入したらスッキリすることもあるからな。

 まぁ、言いたいことはな、肩ひじ張って構えんでもええっちゅうこっちゃ。読書は洗顔や歯磨きみたいなもんなんやで。習慣的に行うもんで、さあ、読むぞー!ゆうて頑張ったりするもんちゃうねん。面白そうやったらどんどん買ったらええねん。読書も体験なんやからな。コインや紙のお金を体験に変えていかなあかん。(石田ゆり子はんの言葉や)

 読んでくれて、おおきに!みんなが本を読むのが好きになってくれたらええなと思って、合間合間に書いといたんや。いつか報われるとええなと願ってるで。ほな、またな!

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