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この世界に驚き続けるために|蒐集、それは研究の始まり

「学問」や「研究」は大学や論文でだけ成立するものではないはず。何かを偏執的に集めている人は、その分野について他の人には見えないものを見ているに違いない。収集を超えて、ちょっと変わった「蒐集」癖を持つ方のお話から、研究の幅広いあり方やその楽しさを探る。

連載3回目となる今回は、渋谷ストリームで不定期開催されているカルチャーイベント「SHIBUYA SLOW STREAM」のディレクター・熊井晃史さんにご登場いただく。渋谷にキャンパスを置く國學院大學と熊井さんは、いわば「ご近所さん」の関係。これまでにもいくつかの接点があった。直近では、伝承文学を研究する伊藤龍平教授と「渋谷に、ヌシは可能か?」というトークイベントを企画し、その様子をブックレットにまとめて公開している。

しかし、熊井さんを端的に「こういう人」と紹介するのは難しい。なにせ教育、場作り、ファシリテーション、出版など、携わるプロジェクトは膨大で幅広い。てっきり「渋谷の人」なのかと思いきや、生まれは武蔵野市、居住地は三鷹市。今回の取材場所である事務所兼ギャラリースペース「とをが」があるのも小金井市だ。

ただ、人・情報・モノをつなぐことで何らかの価値を生み出しているというのは、彼のあらゆる仕事に共通していることかもしれない。つなぐことの前段には必ず集めることがあるはずで、そういう意味ではこの連載にうってつけの人物と言えた。そして蒐集物について尋ねるこちらからのメールに、返ってきた答えは「音の鳴るホース」「綱引きの綱」……。

ものの具体的な様相も魅力も、皆目見当がつかないところから一つひとつ紐解いていくような取材。その先に待っていたのは、集めるという行為自体をめぐる終わりのない思索だった。

▼話を聞いた人
熊井晃史

個人事業主、10代向けの学び舎「GAKU」事務局長、ギャラリーとをが・主宰。過去に、NPO法人CANVAS・プロデューサーを経て、2017年に独立し現在に至る。一貫して子供たちの創造性教育の現場に携わっている。社会教育の可能性を探る書籍「公民館のしあさって」(ボーダーインク)を2021年に編集発行。

武蔵野の「ホースおじさん」現る

━━集めているホースというのは?

これです、モノとしては。こうやって振ると音が鳴る。吹いても音が鳴る。

━━本当だ。面白い。これはもともとは……

エアコンの室外機に使われていたものです。いろいろと実験してみた結果、これが一番よく鳴ることが分かって。ホースはホースでも、ものによっては鳴らないんですよ。たとえば洗濯機のやつは鳴らない。

━━マニアックな知識をありがとうございます。それにしてもなぜホースを集め始めたんですか?

若い頃にノイズバンドをやっていて、自分で吹いていたというのはあるんですけど。これは自分のためではなく、ここに来る子供たちのために集めているものなんですよ。

━━自分ではなく、人のためのコレクション。

昔ほど頻度は高くないんだけど、マルシェやイベントを開くと地域の子供たちが遊びに来るんです。そうすると、置いてあるものを物珍しそうに触ったりして、ウロウロしている。そういう子供たちの前で、ふいに音を鳴らすんですよ。「やってみる?」と言うと、みんな嬉しそうな顔をしてね。長さが違うと音も変わるので、ハサミを渡して「欲しいだけ持っていっていいよ」と言って。

だから俺はこの地域の「ホースおじさん」。このへんにはこのホースを宝物のようにして、公園や家で振り回している子がいっぱいいるんです。

━━確かに子供は好きそうですね。

もう一歩踏み込んでちょっと真面目な話もすると、俺はずっと教育の仕事をしてきていて。教育って、学校なんかだと「はい、今からお勉強しましょう」と始まることがほとんどじゃないですか。チャイムが鳴って、ここからは算数の時間、みたいな。非常に意識的にというか、明示的に始まってくる。でも、俺はそうではない学びを考えたいタイプなんです。

━━分かります。

このホースもそれと同じで。「今から音楽の時間です」「みんなでこれを鳴らしてみましょう!」みたいなことがやりたいわけではなく。ある種、出会い方からデザインして、子供たちにとっての驚きを作りたいと思ってやってる。

そのものずばり『状況に埋め込まれた学習』っていう名前の書籍もあるくらいで。子供たちとしては普通に遊びに来ているだけなんだけど、結果としてそこでカギカッコ付きの「音楽」と出会う、というような。そういうことを意図してます。親御さんにあらためてそんな説明をすることはないですけどね。

━━なるほど、すごくいいことをしてるんですね。

でも、ある程度たくさんないと、子供としても反応しづらいし、もらいづらいじゃないですか。それで近所のホームセンターまで買いに行って、物量を担保しているんです。

失われた「鬼性」

熊井さんの事務所兼アトリエ兼ギャラリーの「とをが」

━━ホースや綱引きの綱以外にも、変わったものがいろいろと置いてありますね。

そう。でも実を言うと、いただいた「蒐集」というのは、俺にとって結構繊細なトピックなんですよ。だからこのテーマで取材の打診をいただいたとき、蒐集についての思いはあるものの、素直に「これ、集めてます」とは言えない気持ちも同居していたというのが本当のところで。

━━そうなんですか。

小さい頃は俺、めちゃくちゃ蒐集癖のある子供だったんです。たとえば、雪が降るたびにそれをフィルムケースに入れて冷凍庫に保存したり。4、5歳になるまでは、集めた石と一緒に風呂に入って、石と一緒に寝るような子供でした。だから蒐集における「鬼性」のようなものにはものすごく肌感があった。

でも、その鬼性を一回失ってしまっているんですよ。

━━どういうことですか?

小学何年生かのときに、コレクションしていた石が全部なくなってしまったんです。親に植木鉢の底石にされて。俺にとっては世界に一つだけのかけがえのない石なんだけど、はたから見ればそれはただの石ころに過ぎなかった。そのことを強烈に突きつけられた出来事でした。

━━それはつらい経験ですね。

蒐集というものにはある種の依存性があると思っていて。当時の俺も、石を集めることにまさに依存していました。それを失ったことで、長らく集めることと向き合えない時期が続いたんです。今回「これを集めてます」と胸を張って即答できなかったのも、そういうわけで。

ただ、ここ1、2年でようやく集めることと再び向き合えるようになってきた。それで集め始めたのがホースであり、綱引きです。だから、蒐集というのは俺にとって回復のストーリーなんですよ。

━━そうだったんですね。ところで、先ほどから出てくる「蒐集における鬼性」というのは「異常に集める」といった意味ですか?

そこにはいろいろな意味があるでしょうけど、鬼がつく方の蒐集って、単なる所有欲とは別の話ではないかと思うんですよね。自己顕示欲とも違うし。なぜ所有したいのかという、もう少し踏み込んだところに欲求がある気がする。

蒐集には、一定以上の数量や時間が蓄積していくと、何かやばいものが宿っていくところがあると思っていて。それは狂気と言い換えてもいいのかもしれないです。

━━ええ。

集めている当人には、集めるはっきりとした理由があるんですよ。俺もそうでした。石を集めていた当時の俺は、死にたくなかったんです。夜が怖かった。それでなぜ石なのかと言えば、石は永遠の存在だから。今でもはっきり覚えてるんですけど、保育園のどんど焼きで焼き芋をしたあとに、焼け残った石を見て「ああ、残ってる」と思ってね。だから宝石のようなキラキラしたものよりも、石という存在に対して自己投影していた。それで石をたくさん集めるようになったんです。

でも、そういう本人の理由って、外から見ても分からないんですよ。俺としては切実さを持ってやっているんだけど、よそから見たら、それはまさしく狂気でしかない。だってそうですよね。毎晩石と一緒に風呂に入って、枕元に石の祭壇を作ってるんだから。

━━でも「鬼性を失った」とおっしゃっていましたけど、狂気が宿っているのは「ホースおじさん」も同じじゃないんですか?

もちろん「ホースおじさん」も、はたから見たら狂気ですよ。この見た目で、ホースを振り回して、子供に「あげるよー」とか言ってるんだから。そりゃあまあ異形ですよね。やばい人。でも、それは蒐集における狂気というより「ちょっと変わった人」みたいな意味でしょう?

同じ狂気でも、2回目の狂気は結構冷静なんですよ。「周りからはこう見えているんだろうなー」というふうに、自分を客観視できている。石を集めていた4、5歳から小学生くらいまでの頃と今とでは、おそらく蒐集におけるモードが違うんだと思いますね。

中身の話から、中身との出会い方の話へ

━━昔とは違う、今の熊井さんがどういうモードで集めることと向き合っているのかがすごく気になります。というのも、熊井さんのような仕事をするにあたっては、人・モノ・情報を「集めること」は間違いなく重要だと思うので。

そう言われてすぐに思い浮かんだのは、ヴンダーカンマーの話ですね。要するに、あらかじめ決まったルールに従うのか、それとも自分が従うルールは自分で作るのか、みたいな。いわば「ルールとの戯れ方」のような話。これは蒐集にも通じると思う。

━━ヴンダーカンマー。ルールとの戯れ方。もうちょっと説明してもらってもいいですか?

ヴンダーカンマーというのは、大航海時代のヨーロッパの金持ちたちが、集めた珍しいものを陳列していた部屋のことで。現代の博物館のもとになったともされています。でも、現代の博物館とヴンダーカンマーでは、ルールとの戯れ方に決定的な違いがあるんです。

博物館って分類法が決まっているじゃないですか。あらかじめある分類、つまりルールに従って配列していく。一方、ヴンダーカンマーにそのような分類や配列はないんです。たくさんの珍奇なものが、応接間のようなところにごちゃっと置かれている。そこにはルールがないというか、ルール自体を作っていく営みというか。それがヴンダーカンマー。俺としてはそっちに惹かれるんです。そこにインスピレーションを感じる。

━━整理しないのが大事、ということでしょうか。

インフォメーションとインスピレーションは違う、という話に近いかもしれない。インフォメーションというのは、基本的には伝わったか伝わらないかがすべて。一方、インスピレーションというのは、そこに鼓舞されるものがあるかないかという話です。まったく理路は違うんだけど、それが混同されたり、インフォメーションの話にとどまっていたりということが往々にしてあります。

おそらく蒐集においてもそうで。モノがもともと持っていた霊性が失われて、ただのインフォメーションになってしまうというニュアンスもあるのではないかと。

━━それは分かる気がします。たとえばこういう原稿を書いていても、情報を整理しすぎると、取材時に確かに感じていた面白さが表現できないジレンマというのがありますし。

人間には自分の生きている世界や社会に対して驚きたい欲求があると思っていて。俺にもあります。それが如実に、ストレートに現れたのがヴンダーカンマーという現象なんじゃないかな。ヴンダーカンマーは「驚きの部屋」とか「驚異の部屋」と訳されるように、そこにはおそらく世界や社会に驚く気持ちがそのままパッケージングされている。大航海時代には自分の住んでいる地域にはないモノとのものすごい量の出会いがあったはずで、その驚きが凝縮された場所なんだろうな、と。

ちなみに、さっきからキーワードのようにして驚きという言葉を使ってますけど、それは「何かあってびっくりする」というのとは全然質の違う驚きのことで。古代ギリシャの人たちは探求が始まる驚きのことをタウマゼインと呼んだらしいですが、まさにそれ。レイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダーにも近いんじゃないかな。

━━探求が始まる驚き。そう言われると確かに、蒐集というのは世界に対する驚きの現れなのかもしれないと思えてきました。ただし、ルールとの戯れ方次第で、その驚きが保持されることもあれば、失われてしまうこともある、と。

鬼がつく方の蒐集というのは、集めて終わりではないと思っていて。俺自身もそうなんですけど、集めたものの配置や並びにこだわって、いつまでもいじり続けるんですよね。それは言ってみれば、驚き続けるための工夫ですよね。驚き続けたいし、自分の中でしっくりくるコンディションを探りたいというのがあります。

本なんかもそうじゃないですか。ちょっと並べ方を変えるだけで、受ける印象が全然違いますよね。だからそれを延々とやってしまう。それっぽく結論づけるなら、これが今の俺の蒐集のモードなのかもしれないです。今の俺の狂気はこのあたりにあると感じます。

コンテンツの話、中身の話から、中身との出会い方の話へシフトしているとも言えるんじゃないかな。今の世の中は確かにモノで溢れている。でも、同じモノでも、出会い方一つで体験は大きく変わりますから。「では、どうしたらより良い出会いをセッティングできるか」ということに関心があります。

━━なるほど、冒頭の室外機のホース、「状況に埋め込まれた学習」の話があらためて腑に落ちますね。

集めるのか、集まっちゃうのか

━━連載の趣旨からいって、どうしても集めているモノそれ自体に焦点を当てざるを得ないんですけど、モノの先に結局何を求めているのかとか、そもそも集めるとはどういう行為なのかといった話ができて、今日はとても面白かったです。

そういうことで言えば「集めるのか、それとも集まっちゃうのか」という話もありますよね。そこにもスタンスの違い、美学の違いが現れるというか。

━━集めるのか、集まっちゃうのか。能動的か受動的かということですか?

そうかもしれない……けど、能動と受動という分け方も実は難しくて。「集まっちゃう」というのは、受動ではあるんだけど、同時に能動性もそこにはある。その綱引き、バランスの問題に近い。

でも「集まっちゃう」という感覚も大事にしておかないといけない気がしていて。そうしないと蒐集というものが、単に物欲や所有欲の話になっていってしまうんじゃないかと。

大切なものほど、掴みに行こうとすると握り潰してしまうところがあるじゃないですか。というか、さっき本当に握り潰してしまったんですよ。皆さんが来る直前まで、俺はここに寝転がって本を読んでいたんですけど、ふと、てんとう虫の幼虫がいることに気づいて。そっと掴んで逃がそうと思ったんだけど、プチュッ、と。その感触と微かな体液が手の中に残って、実は少し落ち込んでいたんですよ。一応逃しはしたんで、どうにか成虫になって欲しいんですけどね。

━━そんなことがあったんですね。

「集めるのか、集まっちゃうのか」という話も結構それに近いんじゃないかと。集めよう集めよう、掴もう掴もうとすると握り潰してしまうものがやはりある。だからそれを掬い取る……というか、なんとなく手をこうやって開いているだけ、自分の身体をそこに置いておくだけで入り込んでくる、みたいなことを大切にしたい。俺としてはそういうふうにモノとか概念と向き合いたいんです。

そこに植木がいくつか並んでるでしょう? あれは我が家の庭の土から勝手に生えてきたものが半分なんですよ。「武蔵野の大地ってすげえな」と思うんですけど、子供がどんぐりを拾ってきて庭に放っておいたら、5年後くらいにいつの間にかニョキニョキ生えてくる。だからこれも自分が集めたわけではないんです。集まっちゃったものなんですよ。

思い通りにしようと思って自分から握りに行くのではなく、自分の置いている身体のそばから生えてくるとか、降ってくるものを受け止める。今の俺はそういうモードになっているのかもしれないです。

━━だからこそ驚けるというのもありそうですよね。自分から掴みにいくというのは、もうそれと分かっているからこそ掴みにいくわけで。もしかしたらそこに大した驚きはないかもしれない。

蒐集物というのは、確かに集めている人間の自我の表れですよ。でも、自我で充満し切っているのはどうなのか。その差し引きに関して、俺には美学があります。「あれ、たまたま生えてきたんだよね」という、ある種のハプニング性というものを受け止められるかどうか。おそらく2024年において、そこらへんのニュアンスで蒐集というテーマを考えたいのかもしれない。

そばにあること、そばにいることの意味をどう捉えて考えていくかというのが、時代だなと思ったんです。ヴンダーカンマーというのは大航海時代、つまり、自分が住んでいる場所からは遠いところから、ある意味で言うと無理やりとってくるときもあるわけでしょう。遠くから集めるというのには、そういう暴力性、略奪性がある。そのこととどう向き合っていくのか。

遠いものに驚きがあるというのは、当たり前と言えば当たり前で。むしろそばにあるもの、家族、地元、あるいは集まってきた経緯も含めた驚きを見直そうよ、と。そういう時代だということでもあるでしょうし、俺自身もきっとそこら辺と向き合いたいんだと思います。

執筆:鈴木陸夫/撮影:黒羽政士/編集:日向コイケ(Huuuu)


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