私と甲子園① KKコンビのPL学園
皆さん、おはこんばんちは。
さて。予告しておいた私と甲子園の思い出話を綴ってみたいと思います。
まずは。私の甲子園観戦歴で、最も印象に残っている高校。
それは「PL学園 」です。
KKコンビのPL学園
PL学園の甲子園での通算成績は、春のセンバツに20回出場して優勝3回(81年、82年、87年)、夏の選手権大会には17回出場して優勝4回(78年、83年、85年、87年)、春夏通算でなんと96勝!
81~82年には史上2校目の春連覇、87年には史上4校目の春夏連覇を達成しています。
甲子園で名をはせ、その後プロ野球で活躍した同校OBは数えきれないほどいますが、私の脳裏に強烈に焼き付いているのは桑田真澄と清原和博、いわゆる「KKコンビ」です😉
高校3年間では春夏通じて最大5回、甲子園に出るチャンスがありますね。この2人が在籍していた83年~85年、PL学園は5季連続出場。
その間に優勝2回、準優勝2回、ベスト4が1回という、まるで水島新司先生の「ドカベン」明訓高校を地で行くような、信じられない快進撃を見せました。
KKコンビ鮮烈デビュー
KKコンビが鮮烈な甲子園デビューを飾ったのは83年(昭和58年)の夏。
しかし、大会が始まった時に2人はまだ無名でした。なんせ、1年生だったんですからね。チームも優勝候補には挙がっておらず、はっきり言って世間も私もアウトオブ眼中だったんです。
この大会の主役は、誰が何と言っても徳島県代表の池田高校でした。
前年の夏。池田は超強力「やまびこ打線」と、のちに南海(現ソフトバンク)から大洋(現DeNA)でスラッガーとして活躍するエース畠山投手を擁して優勝。
そして翌83年の春センバツでは、のちに巨人入りする「阿波の金太郎」こと水野投手で夏春連覇を達成します。
そしてこの夏も池田高校に死角は無く、史上初の夏春夏の3連覇は間違いなしと、誰もが疑っていませんでした。もちろん、私もその1人でした。
池田は順当に勝ち進み、準々決勝では事実上の決勝と言われた中京と対戦。水野と中京のエース・野中の「友情対決」は、イニングの終了時にお互いがマウンドにやってくるまで待って、ボールを手渡してからベンチに下がるという感動的なシーンが印象に残ってます。
池田vsPL学園
その試合に勝った池田の準決勝の相手が、PL学園だったのです。
この絵に描いたような世代交代劇が、印象に残っている一番の要因でしょう。
※トップ画像は、準決勝・池田vsPL学園のNHK放送(YouTubeから)
この試合。PL学園の猛打が水野に襲いかかり、桑田の本塁打などで4回までに6点を奪って試合の大勢を決めてしまいます。
桑田に打たれた本塁打が、水野が公式戦で浴びた初めてのホームランでした。このとき中継していたアナウンサー・植草貞夫さんの
「いつも自分のやっていることを、相手にやられてしまいました」
という実況が忘れられません。
優勝スコア
この試合に勝って決勝に進んだPL学園は決勝でも横浜商を3-0で破り、夏の甲子園2度目の優勝を飾ります。
※ちなみに初優勝の78年は、準決勝・決勝と2試合続けてリードされていた終盤に点差を跳ね返して勝ったため、「逆転のPL」の異名が付いた年でした。
PL対横浜商の決勝のスコアが↓これです。私がテレビを見ながら(正確には録画したビデオを見ながらですが😆)付けたものです。
(スコアの書き方が、今は三振をKと書きますが、この頃はSOと書いてますね😅)
今となっては準決勝のPL学園vs池田戦のスコアを付けていなかったのが悔やまれますが、なんせ池田が準決勝なんかで負ける訳がないと思ってましたから😥(笑)
連続で準優勝
この後のKKコンビは、2年生のセンバツでは決勝で岩倉(東京)に0-1で惜敗。
夏の甲子園決勝では取手二高(茨城)との延長戦の末に敗れて、いずれも準優勝。
3年の春センバツでは、初出場で初優勝してしまう伊野商(高知)の渡辺投手(西武→ダイエー)に準決勝で押さえ込まれベスト4どまり。
これらの負けた試合にも数々のドラマがあるんですけど、長くなり過ぎるのでとても書けません😆
最後の夏に優勝
そして迎えた最後の夏。
順当に勝ち進んで迎えた宇部商(山口)との決勝戦は大熱戦となり、3対3の同点で迎えた9回裏。
2死二塁から、清原の前を打つ三番・キャプテン松山のタイムリーヒットでサヨナラ優勝!
ネクストバッターだった清原がバットを持ったまま、ピョンピョン跳びはねて喜んでいた姿がまぶたに焼き付いています。
その試合のスコアが、これです。
植草アナの名実況
そしてこの試合でも、植草アナの名実況が生まれます。この日、2本の本塁打で甲子園通算記録を更新した清原の2本目の同点ホームランの時。
「恐ろしい。甲子園は清原のためにあるのか!」
というのがそれ。これはもう語り草になっていますね。
結局、桑田は甲子園通算で20勝3敗(戦後最多)、防御率は1.55
清原は通算打率.440 本塁打13本(歴代1位)という記録を打ち立てます。
とにかく、桑田の投球は芸術家の域。
決して大柄とは言えない体軀なのに、しなやかなフォームから繰り出される速球と、ドローンと曲がって落ちてくるカーブとのコンビネーションは、高校生レベルで打つのは至難の技だったと思います。
桑田 圧巻の投球
3年間のうち、私が一番圧巻の投球だったと思うのが2年のセンバツ。負けてしまったけど、岩倉との決勝戦の映像が残ってますので、それを観てください。
とにかく凄い! としか言いようがありません😆
チームは84年センバツの対砂川北戦で1試合6本塁打、85年夏の対東海大山形戦で32安打29得点(史上初の毎回得点)の記録を作り、いずれも未だに破られていません。
【追記】フォロワー(注:旧LINEブログ)のテツヤさんと秋田の人見知りさんから、清原の投手起用についてコメントがあったので追記します。
29点取った東海大山形戦で、清原はマウンドに上がっています。9回表一死から4人目として登板し、2四死球を与えたものの無失点で終えています。
ちなみにピッチャー清原はこれが初めてではなく、84年(2年生)の春1回戦vs浜松商戦で投げています。11対1で勝った試合ですが、8回一死満塁のピンチで登板し、1回3分の2をパーフェクトリリーフ!
結局、清原の甲子園での投手成績は、2回3分の2を投げて被安打0、防御率0.00となっています。
PL学園卒業後のドラマ
ここまででも大長編となっているこのブログですが、KKコンビのドラマは甲子園だけでは終わりません。
85年のドラフト会議。清原は尊敬する王監督の巨人入りを熱望し、桑田は早稲田大学への進学を表明していました。
しかし、会議のフタを開けてみると巨人は桑田を単独指名。清原は6球団が競合の末、西武ライオンズが交渉権を獲得します。
桑田は「ドラフトで巨人に指名されたらプロ入りと、心に決めていた」と、巨人に入団します。
裏切られた清原は西武入りし、ルーキーシーズンに31本のホームランを放って高卒ルーキー記録に並び、打率三割超えで新人王に輝きます。桑田も2年目の87年にチーム最多の15勝をあげ、最優秀防御率を獲得。
その年の日本シリーズでは、西武が巨人を4勝2敗で下して日本一になりますが、シリーズが決着を迎えようとする第6戦の9回表2アウト。あとアウトひとつで裏切られた巨人を倒せると感極まった清原が、一塁ベースの守備につきながらボロボロと涙を流し、二塁手の辻(現西武監督)になだめられるというシーンが語り草となっています。
しかし、このドラフト事件でKKコンビの友情は破たんしたかと思われるかもしれませんが、97年にFA制度で清原が巨人に移籍すると再びチームメイトに。
その後、桑田はメジャーに渡り、清原はオリックスに移籍。ケガに悩んでいた清原の復帰練習に、現役引退していた桑田が打撃投手を務めるなど、変わらぬ友情を見せています。
現在では、薬物疑惑が取りざたされている清原と、チーム内暴力が原因でPL学園の硬式野球部が休部してしまったのが残念でならないですね。
が、それでも往年の輝きが失われるものではありません。
私にとって、KKコンビのPL学園は高校野球史上最強のチームなのです。
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