2/19(土)

 朝、目が覚める。6時に起きようと思っていたが、8時半に起きて、飛び起きて、急いでGELの服に着替えて家を出る。そんな日もあるよなぁと昨日仕掛けた炊飯器を横目に家を出る。雨が降りそうな天気の朝は、すがすがしい気持ちがした。昨日の大吾さんに見てもらい、目の前思考が今日も続いていることに嬉しくなった。よかった。なぜかはうまく言葉にできないけれど、そんな感覚を覚えた。
 バイトに行くと、誰がいたっけ、えーっと、植松さんがいた。何も考えずに楽しい会話ができた。久しぶりの感覚だった。未来志向。過去のことは引きずらない。それがどんなに素晴らしいことなのか。僕にはよくわかる。しみじみと。誰かに分かってもらわなくても、別にいい。そんな風に思う。自分が分かっていればそれでいい。それはすごく寂しく聞こえることかも知れないけれど、それはすごく当たり前のことでもあったりする。当たり前のことほど、すごく鈍感に感じる。仲間も、恋人も、家族も、仕事も。当たり前が当たり前じゃないことは分かっているけど、だからこそ大切にしようとか言ったら、たぶん、「サムい」と言われる。言葉にしなくても分かってることはかなりある。その一つ一つを言葉にしなくても分かり合える人は、おそらく気が合う人だと思う。一緒にいて心地がいい人。それは家族とは恋人とか、友達とかいう名前で表される。このバイト先の人たちは、どんな名前で表せるんだろう。そんなことを考えている人はいないだろうけど。
 バイトが終わって、家に帰る。12時。朝食べるはずだった、カピカピになったご飯とお味噌汁、帰りにコンビニで買ったレトルト中華丼の元をレンジでチンして、給湯器に入れた水が沸騰するのを待った。普通の食卓。これが僕にとって、どれだけ当たり前だったかは、おばあちゃんが亡くなってから痛いほど分かった。僕はおばあちゃんに依存していた。綺麗な言い方をすると、おばあちゃんが大好きだった。でも、実際は、ただ甘えていただけだった。毎日3食ご飯を用意してもらい、お弁当まで作ってもらった。毎日の感謝は伝えていたが、受験勉強や部活を理由に何かと任せきりにしたことが多かった。何より、もっと話したかった、と後悔がある今、どれだけおばあちゃんをぞんざいに扱っていた現実があったかを思い知らされる。
 午後は新宿へ。ひろきさんと一緒に仕事をした。しっかり頼れた。人に頼る。人への頼り方が分からなかった僕が自然な会話の流れの一つで、投稿を作る時のポイントを聞けたことは大きな成長だ。うれしい。言葉にはしないけど、認識していること。誰か、このことを言葉にしなくてもわかる人がいたらたぶん、仲良くなれると思う。15分はあっという間だね。ということで、今日は終わり。

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