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選択肢の少ない生活

緊急事態宣言も、そろそろ部分的に解除されそうな雰囲気が漂っている。その後は「一斉に」というほどでもないだろうけど、周囲の様子を伺いながら、少しずつ様々な活動がはじまっていくのだろう。

今の生活は、一人一人がとれる選択肢が総じて少なっている時期だといえるだろう。移動が制限される人、仕事が制限される人、生活が制限される人、など。

この時期私は仕事もしていなかったので、本当に「ただ過ごしていた」日々だった。たまに鬱々したり、「つまらないな」と思うことはあるものの、全体的には比較的過ごしやすい時期だったようにも思う。起きたい時間に起きて(でもそれほど長寝をすることはなかった)、基本的に自炊をし、晴れている日は人気のいない場所を散歩し、雨の日は部屋の中でできることをし、読書をし、たまに羊毛フェルトをし・・・。家の通信環境の影響で、今まさにブームであるWEBコンテンツの楽しみはそれほど享受できなかったので、更に時間の使い方の選択肢は少なくなった。

そしてそれが、今振り返るとよかったように思っている。真昼間、特にすることもなくて布団を背に寄りかかりぼーっとしているとき、何かの感覚に似ているな、と感じた。

思い出してみると、それは学生時代の休みのときに感じていた感覚だった。家でする宿題などの量もそれほどではなく、友人と遊ぶといっても距離があってなかなか難しく、「ただただ暇」な時間が多かった。やることがなさすぎて、家の屋根に出て太陽の陽を浴びながら寝っ転がってみたり、ソファーに座って無目的にぼーっとしていたり。なんとなく絵を描いて、そして破ったり。

そして思ったのだ。仕事をしはじめた後の「休み」は、何か「休みらしきこと」をしていたことを。それは日頃の疲れの回復をしていたり、平日できないことをしていたり、仕事をしていることに対する反作用的な休みだった。だが今は仕事もなく疲れも溜まらないし、やりたいことはできないことが多いし、やらなければならないことはすぐに取り掛かって終えることができるため、「ただただ暇」な時間が生み出されている。

そして案外、そんな時間が幸せだと思う自分がいて、「ああ。こんな時間、かなり長い間過ごしていなかったな」と思い、これこそが以前の私が体験したことだったのかもしれない、とも思ったり。そして、子ども時代にどれほど素晴らしいときを過ごしていたかがわかったり。

選択肢が多かったり、希望や欲求が叶えられてしまったら、きっとこの時間はなかったように思う。不思議なものだ。

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