傲慢と謙虚 ―神が必要な理由―

(読了目安5分)

今回は、「痛み止めとしての神」の他に、「人の傲慢さを正当化するための神」についてです。


過去記事の「モーセの海割りの意味」に共通する部分もあります。
主に現在「神」やその他「神秘的な力」に惹かれている人に読んでいただきたい内容です。


マスターはこれまでに、人にとって「神(宗教)」が必要なのは、「痛み止めになるから」と書いてきました。


その理由は、人が神を求める「タイミング」にあります。
人が神を求めるのは、苦しみや不幸をきっかけにすることがほとんどであって、幸せの絶頂のときに、あえて宗教を始める人がいないことで説明できるからです。


人の未熟さや弱さの結晶を「神」と言っていいのかもしれません。


・・・


「皆既日食」の話をします。

昔、人類は太陽の出入りに合わせて生活をしていました。
太陽を覆い隠す「皆既日食」は、人類にとって恐怖だったはずです。
しかし「皆既日食」の仕組みについて考えた人類は、長い年月をかけて、「皆既日食=恐怖」から、「皆既日食=娯楽」に変えました。


皆既日食が恐怖だったころの「いけにえの儀式」はなくなり、現代人の多くは皆既日食を「イベント」として楽しんでいます。


もし人類が皆既日食の仕組みについて「神の怒り・悪魔の仕業」と思い込み、星の動きについてなにも研究をしなかったら、今でもいけにえの儀式は続いていたはずです。


恐怖を娯楽に変える研究の原動力になるのは「探究心」ですが、その探究心が生まれる元になるのは、「無知の自覚」です。
仮に「私はなんでも知っている」と威張っていたら、理解できないことが出てきたときに引っ込みがつかなくなり、それを全部「神の仕業」にしなければならなくなります。
傲慢な人は、自分を正当化するために、神を作り出し、「神のみぞ知る」とごまかす必要が出てきてしまうんです。


たとえば、その時代の「権力者」は、ある意味「オレはなんでもできる」と威張っていなければいけません。
自分の無知を認めてしまったら、カリスマ性がなくなってしまうからです。
カリスマ性がなくなると、周囲からの信用が落ちて国の統治がしにくくなったり、自分の国の民たちが不安になってしまい、国力が落ちます。


ですから、権力者はなんでもできる完全なカリスマでなければいけません。


しかし、人間である以上、本当は不完全なんです。完全でいたいけど不完全・・・これをうまく解決するために必要なのが、「神」なんです。


唯一絶対の「神」を作り、大切なところで「神のお告げ」と、神のせいにしてしまえば、自分のメンツを保ちながら、そのお告げが間違っていても、権力者自身は自国の民たちから許してもらえます。
「神」を作り出すことで、「神」が自分のミスの身代わりになってくれるということです。

神は権力者にとって「便利グッズ」として必要になり、民たちも、その時代の権力者が作り出した神を信じるように教育され、その集団はなんとかまとまりを保つことができます。


大昔の人間は、不可解な「皆既日食」という現象を「神の怒り」や「悪魔の仕業」として処理し、場合によっては太陽信仰で人間のいけにえまで捧げていました。
国を治めるために必要なことだとは言え、「太陽神」が人の命を欲しているという設定で通すなんて、現代人から見れば強引な方法です。
今はそんなことをする国はありませんし、みなさんも、しようと思いませんよね。
しかし昔の人は、それらの儀式を大真面目でやっていたんです。



理解できないことがあった場合、「自分の無知が原因」と考える人は謙虚な人です。
謙虚な人は探求しようとしますから人間として成長します。
わからないことを「神の仕業」にする人は、考えることをやめた「傲慢な人」ですから、わからないことは全て神に任せてしまい、成長は止まります。
傲慢な人は成長できない・・・成長できないということは愛に近づけないということです。


皆既日食の仕組みを解明したのは、傲慢な人たちではなく、自分の無知を自覚している謙虚な人たちです。
みなさんはもちろん謙虚であってください、それが長く愛されるための基本です。


余談:以下太文字の話を想像してみましょう

昔の話です。
E子さんには幼い子どもがいました。
子どもが病にうなされ、高熱を出しながら苦しんでいました。


熱はなかなか下がらず、食欲をなくし、水を飲ませても吐いてしまうような状態です。


そんな状態で、食事もできないまま3日が過ぎ、子どもはやせ細っていきました。

居ても立ってもいられないE子さんは、神様にお願いしました。


「神さま、私たちにとって大切なお米をお供えしますので、どうか子どもの病気を治してください」


E子さんは祈り続けました。


すると翌日から子供の熱は下がり始め、何事もなかったかのようにすっかり元気になったんです。

その後、E子さんは事あるごとにお米を供え、神様にお祈りをするようになりました。

願いが叶わない時は、次回はお米の量を多くしたり、祈る時間を長くして対処しました。


さて、ここでみなさんに質問です。
上記の「お米を供えて祈ったら病気が治った」というのが事実だとして、みなさんは、これが神の存在の証明になると思いますか?
具体的には、あなたの子どもが上記のような状態になったとき、あなたはお米を供えて神に祈りますか?、ということです。


・・・きっと祈りませんよね。


「たまたま治りかけの時にお米を供えて祈っただけで、お米を供えて祈らなくても治っただろう」と考えるのが本質です。


しかし現代でも、E子さんのような考え方で生きている人がいるんです。
これまでにたくさん書いてきたように、健康食品、美容関連商品で言えば、「〇〇を食べたら元気になった、〇〇をしたら痩せた、だから〇〇は身体にいいし効果がある」

という考えです。

※さらにエスカレートし、「それを食べなくなったら病気になってしまう・食べ続けなければ!」という心境になり、他人にもその食品を勧めまくる人もいます


本当にそうなのか自分でよく考えず、信じたいように信じてしまう思考は「盲信(子どもの思考)」ですから、そんな人が長く愛されることはありません。

また、このnoteの人気記事でもある「オーブ見せます」でたとえると、「写真を撮ったら白い丸が写った・目に見えないものが写真には写る、だから精霊やエネルギー体に違いない」こう信じてしまうのも、E子さんと同じ考え方だと言えます。


今の時代、「神・いけにえ・お祈り」などでは、本質に近づけません。
「自分の外側に神がいる」という設定そのものが、人の「不安や傲慢さ」など、未熟さの証明なんです。
こういう考え方の人には、似たような考え方の人が近づいてきますから、長く愛されるには限界があります。



◎まとめ

人間は、以前よりも神を必要としなくなりました。
その理由は、人間という「種」そのものが成長し、以前よりも自分の力で物事を解決する知恵を身に付けたからです。


人類の成長に必要なのは、傲慢さではなく謙虚さでした。
人の成長に必要なことも、傲慢さではなく謙虚さです。

・・・

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