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【短編小説】佳子と池田

ひとつのことに集中することしか知らない少女:田中佳子には、信頼できる家族があった。

彼らは佳子のことを大事に育てたが、冒険もさせた。

佳子は真っ直ぐ前だけを見て進んだ。そこには山があった。山の中には野獣のような男:池田シンヤが住んでいた。

池田は世を捨て、狩りをして生きていた。

池田は富豪の息子だったが、父の妾に手を出して追放されたのだった。
追放はされたが、不憫に思った叔父が山と最低限の住処を与えた。

池田は身体を鍛え抜いていたので、素手で鳥を気絶させる技を間もなくものにした。

佳子をひと目見た池田は、鳥と間違えて佳子を素手で気絶させた。

池田は佳子を顧みることなく、山小屋へ帰った。

佳子は山道に放置されたまま、数日を過ごした。
深い眠りと覚醒を何度となく往復した。佳子の目には、暁の光の中を歩く池田の姿が映ることもあった。しかし、佳子は夢だと思った。

おお太陽よ、私をこの暗い洞窟から出したもう。

佳子は我を見失った。

***

乾季が去り、雨季がやってきた。

佳子は山の木の繊維で服をこしらえる術を身に着けた。火を焚き、木の実を食し、佳子は生き延びた。ときには幻覚キノコでくつろいだ。

佳子は、自作の上着の袖に、夢で見た池田の容姿を縫い込んだ。佳子はたくましく山に適応した。

新しい感覚が池田を襲った。それは春の稲妻のようだった。
池田の耳を貫き、目の光を奪った。池田は子どものようになって、庭を駆けずり回った。それは、求愛のダンスのようだった。池田は疲れるまで庭をぐるぐる周り続けた。日が暮れると倒れるように寝た。

そんな日々が一年も続いただろうか。

池田は鮮やかなアンサンブルの音色で起きた。輝かしい太陽の光の中に複数の楽器を器用に操る佳子の姿があった。

彼女は山の恵みから楽器を製造する術をも身につけていた。

この短期間にここまでの力を…。

池田は、どこからともなく現れた謎多き女性に、心惹かれるのだった。

池田は木陰から佳子を見守るようになった。

佳子はそれを知っていて、いつものように生活した。池田の小屋、狩り場、秘密の地下室への入口…、佳子はすべて把握していながら訪れることをしなかった。佳子はあくまでも無知な文化人然として振る舞った。

なぜなら彼女には死期が迫っていたからだ。

***

佳子は服を脱ぎ去り、水くみ場で膝をついた。

瞑想状態になり、自らの水分、油分、繊維質、気体やエネルギーまで、すべてを川に放出し始めた。

彼女は精妙な粒子になって、この山と一体になることを決意したのだ。

その儀式が始まったことを鳥から知らされた池田は、一目散に水くみ場へ走った。

しかし、ときすでに遅し。水の神:巨大ザリガニが佳子を迎えに訪れていた。

自らの無力さを悟った池田の怒号は、野犬の遠吠えのように無意味であった。

佳子は段々と透明になり、そして月明かりの中へ消えた。

***

佳子が脱ぎ捨てた服をつかみ、池田は泥になるまで泣いた。

服の袖には池田の姿を象った刺繍が見えた。

池田はそれを見て、泥に苔が生えるまで泣いた。

いつしか涙は川と溶け合い、山と一体になった。池田の身体も透明になって消えた頃、星が世界を包みこんだ。

ふたりは、永劫のときの中、山の精気となって結婚を果たした。

ちゃんちゃん。

作:中村 心 2024年5月11日。『美女と野獣』、ちくわさん、いーじーさんへ愛を込めて。


創作の参考にしたタロットカード


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