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忘れ物という爆発物

 電車やバスに乗ると、不審物への注意喚起を促すシールがいたるところに貼られている。不審物を見つけたら駅係員に知らせるよう呼びかけるものだ。これはオウムの地下鉄サリン事件があってから多く目につくようになった。不審物は必ずしも危険物ではないが、事件により、忘れ物や落し物に対する社会の見方が変わった。

 そんなことがまだなかった頃、地下鉄の網棚にバッグを置き忘れたことがある。
 当時勤めていた会社の忘年会は、飲み会の前になぜかバレーボールをやることになっていた。体育館を借りてバレーボールで汗を流したあと、飲み会の店に場所を移すのだ。
 忘年会の幹事は新入社員がやることになっていた。私はほかの三人の新入社員とともに、その年の忘年会の幹事をまかされていた。

 暮れの押しつまった日の宵にバレーボールをやろうという、バレー好きなというか物好きな輩はそういない。広い体育館は貸切同然だった。暖房などもちろんない。ボールを打つ音や歓声が高い天井に寒々しく反響して、寒い館内がなおさら寒く感じられた。汗をかけばビールもうまいだろうと期待していたが、半袖のポロシャツ姿だったので汗どころではなかった。
 バレーボールが終わると、幹事は飲み会の会場に急がなければならなかった。気がいていたのか、ポロシャツとジャージーにコートを羽織っただけの格好で体育館を出た。着替えた服や靴をバッグに詰め込み、持って出たのは確かだ。飲み会の会場は、浅草の吾妻橋のたもとから出る屋形船だった。

 幹事の立場では外を眺めることなど望むべくもなかったが、屋形船のガラス窓も障子も閉じられたままだった。揺れることもほとんどなかったので、船に乗っているという実感がなかった。会場を屋形船にした意味がないなと、思ったことを覚えている。
 吾妻橋に戻ってから、どこか二次会の店に移動したようだが、このあたりから記憶が曖昧になっている。
 終わってみると帰りの電車がなくなっていた。やはり帰れなくなった社員たちと、まだ動いていた銀座線に乗り、会社に戻って泊ることにした。
 バッグを電車の網棚に上げたのは覚えているので、降りる時に忘れたようだった。いつ気がついたのか定かでないが、それほど心配もしなかったのは、貴重品を入れていなかったのと、届け出れば戻ってくるだろうと思っていたからだ。
 翌朝はみすぼらしい半袖ポロシャツにジャージー姿のまま、社員たちと中華レストランの回転テーブルを回し、せいろ蒸しシューマイなんかを食べていた。
 バッグは中身とも無事に戻った。

*  *  *

 二十代のある時期、中東のイスラエルに数か月間滞在した。
 イスラエルは日本の四国ほどの面積しかない小さな国だ。二〇二〇年現在の人口は九百万を超えているが、当時はその半分にも満たない四百万あまりだった。ユダヤ人に限るとそれよりも少ない数字になる。
 そんな国が、一九四八年の建国以来、周辺のアラブ諸国と四度の中東戦争を繰り返してきた。小規模な国境紛争や小競り合いは数知れない。
 建国により住む家や土地を追われたパレスチナ人の問題は、解決の展望が開けそうになるたびに潰されてきた。暫定自治政府ができたが、現在も当時も、パレスチナ問題は実質的に放置されたままだ。
 出口が見えず希望も持てないパレスチナ人が、圧政としか思えないイスラエルの力の行使に対抗し、時に過激な行動に訴えるのも無理のないことか。それに対してイスラエルは容赦なく報復する。

 その一方で、現地のユダヤ人の口からは、「将来彼らアラブ人の国ができたら、この道路が国境線になる」という話を聞いたりした。
 イスラエルはパレスチナ問題の存在を認めていないので、パレスチナ人と言わずアラブ人と呼ぶ。「国境線」も、何十年も前からあるヨルダン川西岸との境界線のことだろう。
 そうであっても、現地で聞くこんな話は具体的で現実味があり、将来への希望も残されているように思われた。
 また、キブツと呼ばれる生活共同体に住むユダヤ人と、近隣の村に住むパレスチナ人との間で、サッカーの試合が行われたりしていた。双方とも熱くなりやすく、時にエキサイトもしたようだが。
 国家レベルでは、当時すでにイスラエルと「アラブの盟主」エジプトとの間で国交が成立していて、エジプトのシナイ砂漠へのバスツアーなどがあった。シナイ砂漠には、古代イスラエルの伝説的指導者モーセが、十戒を授かったと言われるシナイ山がある。国交樹立の陰でパレスチナ問題がかすんでしまったきらいがあるが。

 しかし、イスラエルの、と言うよりユダヤ人の国防意識は、建国以来一貫して変わっていない。内外の危機に対するその姿勢は、過敏とも過剰とも思えるものだ。
 イスラエルの人口の大多数を占めるユダヤ人には、一部の例外を除いて、男女とも兵役の義務がある。つねに国民の一定数が兵役についていて、戦争が始まったわけでもないのに、町のいたるところに兵士の姿があった。
 ユダヤ教の安息日、つまり休日は土曜日なので、毎週金曜日の午後になると、バスターミナルは部隊から一時帰宅する兵士らで溢れた。バスはイスラエルの主要な公共交通だ。
 路線バスに乗っていると、アメコミのキャラクターのような太い腕をむき出しにした巨漢の兵士が、ユダヤ教徒がかぶるキッパという丸い小さな帽子を頭に載せ、軍服に汗を滲ませて乗り込んできた。
 別のまだ十代と思われる兵士は、絵の具を派手に塗りたくったような白いTシャツに、ダメージジーンズとサンダルという出立ちだった。
 隣の座席では、二十歳前後と思しき女性兵士が、床に座ったもう一人の女性兵士と、早口のヘブライ語でおしゃべりに興じていた。
 その誰もが、黒い塗装がところどころ剥げた自動小銃を肩に掛け、あるいはハンドバッグでも扱うように膝の上に置いていた。これはイスラエルの日常風景だ。 
 危険な国というイメージにもかかわらず安全だったのは、そんな武装した兵士がいつも身近にいたからだろう。力を誇示することで強制的に治安が保たれていたとも言える。それは国家として、あらゆるものに対する警戒心がきわめて強いということだ。国民皆兵のイスラエルでは、この警戒心はおそらく国民すべてが持っているものだ。

 ある時、バスターミナルでバスを待っている時だったか、少しの間バッグを置いてその場を離れようとした。バッグには着替えなどの日用品一式を詰め込んでいたので、持ち運びに難儀していた。
 すると、近くにいた男性に声をかけられた。明るい色のワイシャツを着た、ごく普通の年配の男性だ。表情こそにこやかだったものの、忘れ物ですよという親切でないことは、そのやや命令的な手振りでわかった。
 イスラエルでは、町なかや公共の場では所持品から離れるなと言われる。それは盗難の恐れがあるからということではなく、たとえそれが罪のない忘れ物であっても、爆発物とみなされるからだ。
 こういう爆発物騒ぎは頻繁にあった。
「爆発物」が発見されると、現場に居合わせた兵士らによって交通が遮断され、人々は一定の距離に遠ざけられる。その後、爆発物処理の小さなリモコンタンクが出動し、「爆発物」は遠隔操作によって安全な場所へと運ばれる。タンクから弾丸が発射され、「爆発物」を爆破させる。
 だが、多くの場合爆発は起こらず、つまり「爆発物」は爆発物ではないようだった。一発の銃声と、おそらくは観光客があげた小さな悲鳴が響くだけだった。ベンチの上の水筒も、道端の紙袋も、爆発物ではなかった。
 兵士らも人々も、何事もなかったように、それぞれの日常へと戻って行った。だがイスラエルの人たちにとっては、「爆発物」もまた日常なのだ。

*  *  *

 忘れ物や落し物がそれとして見られ、丁重に扱われるのは、平和で安全な社会であることの証明だ。以前の日本がそうだったように。
 だが、日本の忘れ物や落し物も、しばしば不審物と見られるようになった。はっきりそうと言わないまでも、爆発物か危険物として処理されるニュースを目にすることもある。私のあの網棚のバッグも、今ならただでは済まないだろう。


記 事 索 引

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