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会社の倒産

 私が勤めていた会社は倒産した。
 商品が売れず、このまま行けばつぶれるかも、という声や雰囲気が常態化していたが、どうにか持ちこたえていた。だから、案外大丈夫かもしれないという楽観的な見方も、危機感と同じくらい蔓延していた。
 そんな状態が何年も続いていたが、いよいよ危ないという声が囁かれるようになった。今回の「危ない」は本当かもしれないと。
 事務所には本社から担当役員が頻繁にやってくるようになり、覚悟を決めろというようなことを言われた。退職金の話まで持ち出されたが、最後まで残って後始末をするようにとも言われた。しかし役員は、倒産という言葉を一度も口にしなかった。本当につぶれるのか半信半疑だった。そこまで楽観論に染まっていたということだ。

 それは給料未払いという形で現れた。
 それまで何年も昇給がなく、むしろ給料は下がる一方だった。ある夏の月に、社員に何の説明もないまま給料が支払われなかった。会社に説明を求めてやっと翌月支給の回答を得たが、実際に振り込まれた日にちは、社員からパートに至るまで一人一人違っていた。給料振込の差配は社長が一人でやっているようだった。
 若い勉強家の社長は、社外セミナーや研究会に積極的に参加し、読書量も豊富だった。その理想の高さが災いして、錯綜した現実を前にすると、考えあぐねて身動きできなくなるところがあった。次善で折り合いをつけるのではなく最善をめざすのだ。
 給与遅配の連絡がなおざりにされたのも、最善にこだわったあまり決断が遅れたのだろう。
 いい加減な性格でもなく、仕事や勤怠にはむしろ細かいほどだったので、事態はそれほどまでに紛糾し逼迫していたのだ。
 給料は翌月中にどうにか支払われた。だが、同じようなことがその後何か月か続いた。

 社員の多くが辞めるか、辞めるよう迫られた。
 若い社員の中には、最後まで残ることを決めていた者もあった。周囲からは、こんなところでくすぶっていることはないと言われていたが、本人は「勉強になるから」とむしろ晴れやかだった。これが批判されるものでないことは明らかだ。若さは会社の倒産をも成長の糧にする。
 辞めるか辞めるよう迫られたのは、パートやアルバイトも同じだった。だが、仕事を大幅に減らしても、切り詰めた人員で業務を処理していくのは困難だった。実際の業務にあたるパートやアルバイトの存在は社員以上に大きかったので、彼ら一人一人に会社の危機的状況と方針を説明する一方で、一日でも長く残ってくれるよう懇願した。矛盾に満ちた話に誰もが困惑した。
 従業員への給料ばかりでなく、取引業者への支払いも遅れるようになった。問合せや督促の電話が、経理部以外にもかかってくるようになった。事態を察したいくつかの業者が倉庫にやってきて、自社の商品のみならず、他社のものまで有無を言わせず持ち帰って行った。
 そして盛り返せないまま、晩秋のその日を迎えた。

 前日には本社から倒産をほのめかすような話があったものの、当日ぎりぎりまで通常業務をこなそうとしていたのは、長年の会社勤めで染みついたサラリーマンの性というべきか。
 しかし、業者からかかってくる電話には一切出なかった。電話のディスプレーで発信元を確認した。出るなというのは本社からの指示でもあったが、電話は支払いの問合せか督促だとわかっていた。倒産が決定的になった状況を伏せて、それらに対して空々しい言辞を弄する気にはなれなかった。
 世話になっていた取引先の担当者には何か言っておかなければと思ったが、結局のところ何もしなかった。毎日来ていた宅配便は翌日いつものように集荷や配達に来て、誰もいなくなっていることに戸惑うだろう。電話は無人の事務所で鳴り続けるだろう。
 そんなことを考えながら、毎日繰り返してきた通常業務を、大して意味があるとは思えなかったがこなしていった。慣れ親しんだルーティンは格好の逃げ場所にもなった。

 そうこうするうちに、本社から倒産を伝えるメールが来た。その日の午後三時をもって、会社は破産管財人の弁護士による差押えの対象となった。総務・経理と、社員個人レベルの残務整理以外の、会社全体としての業務が実質的に停止した。
 事務所は物流会社から間借りしていた。家主のその会社の担当者には、直接会って倒産の旨を伝えた。支払いに関する話はそれまでにもしていて、会社の業績があまり芳しくないことは知っていたはずだが、倒産の危機にあることは一切話していなかった。突然の破綻の報告に、温厚な担当者は冷ややかな無言で応えた。

 本社から担当役員が事務所に来た。
 役員は「石橋を叩いて渡らない」とも「石橋を叩いて逃げる」とも一部で揶揄されていたが、何年か前に会社の業績悪化と経営方針をめぐり、当時の社長とケンカになった。そして「それでも男か!」と啖呵を切って会社を辞めていった。社長の独断専行ぶりがひどい時期で、諫言する者もいなかったので、役員の思いがけない豪胆な行動に快哉を叫んだものだ。
 その後二人はある機会に相まみえ、どんな経緯があったものか、元役員は会社に戻ってきて元の鞘に収まっていた。
 その日、いつものようにバイクでやってきた役員に、総務部に行くよう指示された。総務のある本社は車で二十分の距離だった。

 本社はどのフロアでも、机や椅子やキャビネットのたぐいが動かされ、あらぬ場所に放置されていた。不自然に広くなった床にはごみが散乱し、パソコンのコードの束がむき出しになっていた。途方に暮れる社員の間を、法律事務所の人たちが慌ただしく動き回っていた。
 ここに至ってようやく倒産の実感が湧いた。現場をまのあたりにすると、たとえ業界で一定の評価を得ていても、会社の運命など実にはかないことのように思われた。
 社員がひとつのフロアに集められた。若い女性弁護士から、倒産に至った経緯と理由が説明された。すべて知っていることで、改めて聞かされるまでもなかったが、破産手続き上の業務の一つなのだろう。早口のその話し方が、倒産の混乱を反映したものなのか、弁護士の性格なのかわからなかった。声は虚ろな空間に反響した。

 総務の担当者から社員の今後についての説明を受け、無用となった応接セットに座って待機していると、会長がやってきた。社長時代に役員とケンカをした人だ。月一回の全体会議に顔を出すくらいで、ほぼ現役を退いていた。新社長の父君で、会社の創業者にして代表取締役でもあった。だが、それらの肩書を感じさせないくらい、社員の末端に至るまで気さくに話しかけ、偉ぶるようなところがなかった。
 ある時、本社に行った社員が会長に話しかけられた。少しの間言葉を交わしたあとで、社員は「たまには遊びに来てください」と会長に言った。翌日、会長は事務所にやってきた。そして「よっ、遊びに来たよ」と社員に手を挙げた。
 自分が働いている会社の会長に向かって、仕事場に「遊びに来て」と言う社員も社員だが、それを言葉通り素直に受けて「遊びに」行く会長も会長だ。
 そんな愛すべき面がある一方で、会長は創業者の例に漏れず、時にわがままと言えるほどワンマンだった。しかもそれを仕事以外の場でも発揮した。
 ある日の朝、会長は総務の社員の運転で、よく利用するという大手のスーパーに行った。だがスーパーは開店前だった。会長は運転手に命じ、スーパーに電話をかけさせた。そして、贔屓の客なのだからすぐ店を開けるよう言えと伝えた。ほどなくして、スーパーのシャッターが恐る恐る上がった‥‥。
 会長には、商品をリヤカーに積んで売り歩いたという、創業時の逸話が残っている。そうやってお客様と広く接した経験を持ちながら、客に頭を下げるのはいやだという、偏屈な一面も併せ持っていた。
 倒産の混乱の中から一人ふらりと現れたそんな会長に、「すいません」と頭を下げられた。かつてお客様にそうしたであろうように、ぎごちなくも両手を膝に当てて腰を屈めた。痩せて合わなくなったスーツがよけい大きく感じられた。

 事務所に戻り、最後まで残ってくれた社員とパート従業員に総務の話を伝えた。社員証と健康保険証を回収し、業務が終わった者から帰ってもらった。
 事務機や備品から什器に至るまでの品で、まとまった金額になりそうなものの数を調べた。金庫の中から、親睦会の会費の残りが出てきた。新年会や忘年会などに使って余った金だ。
 タイムレコーダーが使えなくなっていたので、総務に全員の勤務時間を連絡しなければならなかった。何人かの業務はまだ片付いていなかったが、終了時間を見込んで一枚の紙にまとめ、頃合をみて本社にファックスした。誰も文句を言わないだろうと、退社した者をも含め、少しばかり時間を多めに計上した。

 夕方遅くなって再び本社に呼ばれた。
 経理部は混乱のさなかにあった。机にかじりついていた経理主任に、親睦会の残金が入った封筒を手渡した。大した金額ではなかったが、中身を確かめられることなく「あげる!」と突き返された。
 その後、男性弁護士を伴って本社を出た。事務機や備品を買い取る業者とおぼしき男が一緒だった。
 二人を乗せた車を運転しながら、彼らを客として遇するべきか業者として接してよいか考えたが、それもほんの少しの間だった。こちらから話すべきことはなく、聞きたいこともなかった。
 無関心を隠す必要はもう感じなかったが、暗い車内はそれにひたるのにたいそう都合がよかった。車の中を沈黙が支配するにまかせた。倒産のショックで黙していると思われたのか、「話しかけていいですか?」と訊かれた。

 事務所に戻り、二人を案内して回った。社員らがみな帰されたあとの職場は暗く寒々としていて、ほとんどは整理する間もなく投げ出されたままだった。
 二人と家主の担当者が今後について話し合うのを、少し離れたところでぼんやり聞いていた。私の役目はもうほとんどなくなっていた。
 弁護士は破産と差押えの旨が書かれた紙をドアに貼って封印とした。
 私物をすべてまとめる余裕も気力もないまま、二人を本社に連れ帰った。

 残務整理が終わらないのだろう。本社ビルの総務経理の窓から、虚空の闇に照明が溢れていた。倒産したというのに、その光の洪水は活況を叫んでいるかのようだった。
 夜闇の中に立つその社屋を見上げたのが最後だった。寂しさや空しさのようなものはそれほどなかった。会社への未練や社員との別れを惜しむ気持ちはさらになかった。その時しみじみと感じたのは、長く続いた行き詰まった状況から、やっと解放されたという安堵だった。

*  *  *

 会社を定年まで勤めあげた人には、その人なりの達成感や感慨というものがあるのだろう。私はそういう境遇になかったので、そんな感情も持ち得なかった。
 だが、最後までつつがなく勤めおおせたとしても、充実感や満足感など湧いてきただろうか。かと言って、違う会社だったらどうだろうと考えてみても、そんな感慨にひたる自分自身は想像できない。
 どちらにしても、会社員生活について考える時、会社というものに馴染めなかった、というより馴染もうとしなかった自分に、そんなもやもやとした不全感がつきまとうのは当然かもしれない。


記 事 一 覧

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