「旅」の果てに③ kokorokotoba著

読みたい方がいるのかどうかわかりませんが、続きを書きます。

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Fラン大学に入学した。中学校から高校まで陸上部に所属ししていた。高校の陸上部では、仲間が出来ていたが大学に来るとまた一からやり直しだ。そう思い、新たな環境中、大学の陸上部にとりあえず入部。そこはカオス状態・・・・やる気0の部活だった。とりあえず、3ケ月だけ入部していた。最後は、逃げるようにフェードアウトしていった。そのうち、東京にいたホームステイの仲間に東京で出会う機会を持つ。そこで、禁断のパチスロと出会ってしまった。手取り足取り教えてもらい勝利!!2万ほど手にしたのだった。そこからどん底の人生を歩むことになる・・・その後、私は依存症となり300万近く借金をするようになる。カード会社と呼ばれる物、全ての審査を受け引き出して、勝っては返済、負けては引き出しのループを歩む。借金の金額を正確には覚えていない・・・なぜなら依存症だったから。


2.「旅」のずばらしさとの出会いと感動

2−1 自分探しとその道

借金で首が回らなくなると、祖父へ相談。全額返済をしてくれた。今でも感謝している。その代わり、ギャンブルとの縁を切ることを約束される。

さて、「旅」と何か。私と「旅」との出会いについてである。

1998年ある大学教授の研究室の前に、韓国のサマーキャンプに関する広告が貼られていた。私は、ホームステイの経験から海外へ興味があり参加してみたくなった。もちろん申し込んだ。参加費はその団体が助成してくれることになり、無料だった。10日間本当に素晴らしかった。20年たった今でも覚えている。共同で公園整備に汗を流し、ご飯を共に食べ、街頭でキャンペーンをし、ホームステイまでした。本当に素晴らしいキャンプだった。そこから、私の旅がはじまるのである。

英語にあまり自信がなかった私は、次に総務省(現内閣府)主催の「国際青年キャンプ」の募集チラシを見つける。三重県で10日間行われるイベントで、現地までの交通費だけで参加できるものである。昼は、サッカー、縁日、ディスカッション。夜は、キャンプファイヤーなど様々な模様しが行われた。今思えば、これが本当の意味での自分が変わった瞬間である。そこに参加した一人の青年とこんな話をした。

青年「こんなイベント好きなら、国際青年の船に乗ったら」

自分「何?」

青年「40日程度、外国人と共に船内で過ごすのさ」

ぜひ、参加したいと思った。けど、こんな自分で大丈夫か不安にもなった。でも、きっと大丈夫なんてどこかで自信を持っていた。

同時期に韓国へ行かせてもらった団体(A)から青年部設立の話も出ていた。国際青年の村を経験し、少し大きくなった自分はAで青年部設立のお手伝いをすることになる。(のちに20年続く団体となる)

 2−2 スタディツアーと私

 僕が初めて、ベトナムにいったのは国際青年キャンプの後すぐである。ベトナムでAが支援をするということが決まって現地の様子を見にいきたいと思ったからである。当時の現状は散々で、注射針がそこらじゅう散らばり、物乞いもひたすらたくさんいた。屋台も多く並び、子供たちがそこに食べ物をもらいに群がっていた。そんな現状をなんとかしたくて何か残せることがないかと考えた時、Aへの参加を考えた。

 Aという団体の青年部に所属し立ち上げたが部員1名。なんとかしないととお思った時、ベトナム支援をAがやるということだった、そこで、スタディツアーを組むアイディアを思いついた。韓国青年キャンプでこの言葉の意味はよく知っていた。「学ぶ旅」その名の通りだ。普通のワークショップや旅行では面白くない。そんな思いで、ベトナムスタディツアーをスタートさせたのだった。ポスターを作り、旅行手配、何から何まで一人でやった。蓋を開けると8名の参加者があった。そこで、旅を作る。「場」をつくる喜びを知ることになる。

  肝心の私は、なんと「国際青年の船」事業に参加することが決まってたのである。というわけで同行が出来なかったのである。スタディツアーのコンセプトはいったってシンプル。

1)学生が自分たちで旅をつくる

2)失敗から多くを学ぶこと

 この2点だ。旅行日程を自分たちで作っていくのである。こんなに面白いことはない。のちに、この考え方が最先端の教育活動となっていくのだが・・・参加者は県内の大学生を集めた。知らない物同士の方が面白い。そして、何より友情が生まれる。

 事前研修1泊2日、本研修1週間、事後研修1泊2日

 8名が参加した理由は様々だった。海外へ出てみたい。安かったから。自分で旅をつくることができたからなど。でも肝心なことは、自分たちでやることこれがみんな共通して持っていた想いであった。普段の大学の講義から飛び出し、何があるか知りたいという思いを巡らせ、大きな大陸を夢見ていくそんな気持ちで一杯だったと思う。

スタディツアーが終わった後、こんなフレーズが頭に思い浮かんだ。ミスチルの「1999年夏、沖縄」である。

最後の曲が終わり 音がなり止んだ時

あぁ僕はそこで何を思ったのだろう

選んだ路とはいえ 時に険しくもあり

些細なことで僕らは泣き笑う

いろんな街を歩き いろんな人に出会う

これからだってそれはそうなんだけど

そして今想うことは たった一つ想うことは

あぁ いつかまたこの街で歌いたい

あぁ きっとまたあの街でも歌いたい

あぁ そして君にこの歌を聞かせたい


続く・・・・





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