妻「この屋形とりはらえ!」 夫「え・・!?」(劇画 教祖物語を読んで その3)
元の神・実の神が、世界を助けるために、天下った。全知全能の神が、直々に全人類を救済しようというのだ!
いったい、何がはじまるのだろう?
神は、中山家に対し、「貧に落ちきれ」と、言った。
え?
神の力で、華々しく世界を助けていくのではないのか?
当時、世の中は、食べものにも困る人で、溢れていた。中山みきさんは、中山家にあるものを、どんどん人に施していったのである。嫁入り道具に始まり、それが無くなると、中山家の財産に手を付けていく。人々は、中山家に群がり、蔵は、空になっていく。
神の超常の力で、世界を助けていくのではない。元の神・実の神なら、どんなことでも出来そうなものだが・・。
しかも、世界を助けると言っても、家族すら、助かるどころか、困り果てている。中山みきさんは、家事はしない、子育てはしない、家財は散財してしまう。
家族は、自分たちを支えている形が、失われていく恐怖を感じたに違いない。
本当に、人を助ける神なのか? 貧乏神なのではないか? キツネかタヌキが取り憑いたのか? はたまた、気が違ったのか?
当時の習俗から、憑き物なら、煙で燻したら、退散するかもしれない、と周囲の者は考えた。中山みきさんは、抵抗する訳でもなく、素直に、煙に燻される。
人々が、憑き物ではないと、納得するまで、好きにさせるのである。
全知全能の神は、全く実力行使をしない。人々のなすがままだ。
人を助けると言っても、物乞いがやって来れば施しをするというだけである。
人々を納得させるのも、人間の疑いが自然と消えるのを待つだけである。
蔵も空になった、ある時、中山みきさんは、夫に言った。
「この屋形とりはらえ!」と。
夫は、「え・・・?」と答える。
全くもって、意味不明である。
このシーンを読み聞かせた時、子供たちも、笑うしかなかった。
なぜ、人を助けるという神が、住んでる家を取り壊せと言うのか?
「え・・?」と言うしかない。
だが、さすがに、言うことは聞けない。すると、中山みきさんは、重篤な症状で寝込んでしまう。
困った家族が、もうポーズだけでもとろうと、どのように屋形をとりはらうか、問いかけると、「玄関の瓦を降ろせ」という。
そして、言う通り、瓦を下ろすと、中山みきさんは、平癒する。
「うだつが上がらない」などという言葉があるように、家屋敷の形式で、人間の格が決められるような時代である。当時、屋形を取り壊しにかかるのは、どれだけ怖ろしいことだったか、現代の我々には実感できない。
だが、夫は、「妻が悪い訳ではないし、妻の命には変えられない」と、神の言うことに従っていく。
形を見れば、先祖伝来の財産を、嫁にめちゃくちゃにされている訳だから、他人は、呆れて、寄りつけなくなる。
夫は、刀を抜いて、「憑き物なら退散しろ。気が狂ったのなら、正気に戻れ!」と妻に言い寄るにまで、追い詰められていく。
また、中山みきさん当人も、「自分さえ居なくなれば・・」と、思いつめて、何度か、池に身投げしようとする。
だが、その度に、「短気を出すのやない」と、神の声が聞こえて、足が動かなくなったという。
中山みきさんは、自分の命を神に差し出す覚悟は出来ていた。娘の命も神に差し出すほどの精神である。だが、それは、長男を残し、「お家」を守ることが出来るなら、娘と自分の命を差し出してもいい、という考え方だった筈だ。
だが、その家そのものが、没落していこうとしている。神は、「20年30年経てば、皆なるほどと思うときがくるほどに」と言った。だから、中山みきさん自身は、何のこだわりはなかったのかもしれない。
けれど、夫には、もう耐えることが出来そうもなかった。事実、夫は、ほどなく亡くなってしまう。悩み苦しみながらの死だったのではないだろうか?
そんな家族の苦悩する有様をみて、自分さえいなければ、と、思ってしまうのは、当然と言える。
まだ先のページではあるが、物語には、衝撃的なシーンが描かれている。施しを続けて20年。
20年目に初めて、「施しをしてもらって、あの時は助かりました」と、お礼のお米を持って訪れた人が現れた、という。
20年、施しを続けて、ただの1人もお礼に来ないで、貰いっぱなしだったのだ。憑き物がついたと言われている人でも、自分が施して貰えるなら、貰いに行き、後は知らぬふり。世間とは、酷いものだ。
しかも、25年間、「家にあるもの」を施し続けたのではない。もう、何も無くなっても、自分達は、人の何倍も働き、その稼ぎで、人に施し続けたのである。
そうして、20年、施し続けたのである。
劇画の中では、「信者が初めてお礼に訪れた」というように書かれている。
いや、違うでしょ。信者とか、そういうくくりの話ではなくて、貰うだけ貰って、お礼も言えない、情けの無い人しか、よりつかなったのだ。25年目にして、やっとお礼を言えるような人が、現れたのだ。
20年間、ただ一方的に施すだけ。
神は、一体、何がしたいのだろう?
世界を助ける、と言って、中山家を、貧に落ちきらせているだけである。
当時の人々が、どこまで聞かされ、何を理解していたのか?
情報は、少ない。
一つヒントとなるシーンが描かれている。ついに母屋を取り壊す日が来たときのことだ。
大抵は、お金に困ったりして、家を取り壊したり、他人に譲ったりするものだから、取り壊しの日は、陰気なもののはずだ。
ところが、中山みきさんは、こう言い放った。
「今日から世界の普請にかかる。祝うて下され」と。そして、酒肴を振る舞われた。
家屋の取り壊しと共に、世界の新たな創造が始まると言うのだ。
人夫達は、こんな陽気な家の取り壊しは、初めてだ、と言ったという。
神は、神が進めている「世界助け」の仕事を、普請(建物の建築)にたとえいるのである。
建築を始める準備が整った、という訳である。
世界を助けるとは、世界を作り直すとも言える。家なら、古い家を壊して、新しい家に建て替えるのであるが、それに例えているのである。
新しい建築の準備が出来た、ということは、古い建物が壊された、ということだ。
まあ、文字通り、中山家の母屋が、取り壊された訳である。
だが、新しい家を建てるとは、言っていない。
これから、世界の普請に掛かる、と言っている。
もし、中山家の屋敷を取り払って、新しく神の神殿を建築する、と解釈したらどうだろうか?
それも、世界中を、神の神殿にしてしまう、という大計画が始まった、と考えたらどうだろうか?
だが、建物が立派になれば、世界は助かるのだろうか?
立派な宗教建築の中に、俗物が巣食っているのは、よくある話である。
神の言う「世界の普請」とは、立派な建物を建てる、という意味ではないのだ。
ただ、世界の普請に取り掛かることと、中山家の屋敷を取り壊すことが、リンクしていることは、確かである。
古い家を取り壊し、更地にして、そこを神が世界を助けていく拠点としたのだ。
神の純粋な仕事において、その元手に、人間の財産や、力が、あってはならないのである。
人間の目からは、形の没落にしか見えない。だが、神の目から見たら、世界創造の再開なのだ。
原初に、元の神によって創造が開始された世界である。その世界創造の力が、再び始動し始めると言うのである。
ついに、神の世界助けの狼煙が上がった!
古い世界が壊れ、新しい世界に建て替わる。
世界の普請である!
さあ、何が始まるのか?
始まったのは、貧のどん底である。
夫は亡くなり、中山みきさんと、子供たちで、貧のどん底を生きる生活が、始まったのである!
ええ? なんで?
そうなのだ。初めてお礼に来る人が現れるのは、神が現れてから20年後である。この時はまだ、16年しか経っていないのである。
子供たちの感想。
「教祖物語、こんなに、おもしろいって思わなかった。」
続きを、読み進めねばならない。
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