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1月17日に思うことー阪神淡路大震災からきょう28年

阪神淡路大震災から、今日で28年が経ちました。
この震災でお亡くなりになられた全ての方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
また、今なお被災の傷跡に苦しむ多くの方々の心の平安をお祈り申し上げます。

昨年の1月17日の投稿でも書かせて頂いたのですが、毎年この日が近づくと、著作「心の傷を癒すということ」を読み返しています。
私が最も印象に残っている一節としてよくご紹介させて頂くのが以下の記述です。(昨年もご紹介させて頂きました)1月17日に思うこと~安克昌著「心の傷を癒すということ」の一節から|映画「心の傷を癒すということ 劇場版」製作委員会|note

「新増補版 心の傷を癒すということ」より


「震災後、マスコミによって、被災者の心の傷の重大さが注目され、それに対して、心のケアの重要性が叫ばれた。それは、日本の精神医学にとっても、今後の災害対策においても、エポックメーキングなことであった。物的被害だけでなく、精神的な打撃にまで、人々の関心が及ぶようになったことは、社会の成熟のあらわれといってよいだろう。
だが、心の傷や心のケアという言葉が一人歩きすることによって、『被災者の苦しみ=カウンセリング』という短絡的な図式がマスコミで見られるようにもなったと私は思う。その図式だけが残るとしたら、この大災害から学んだものはあまりにも貧しい。人生を襲った災害の苦しみを癒すために、精神医学的なテクニックでできることはほんとうにささやかなものでしかない。
ここで私が試みたことは、多くの被災者が感じていながら言葉にしにくい、被災体験の心理的な側面を明らかにすることだった。それは心の傷や苦しみだけではない。『なぜ他ならぬ私に震災が起こったのか』『なぜ私は生き残ったのか』『震災を生き延びた私はこの後どう生きるのか』という問いが、それぞれの被災者のなかに、解答の出ないまま、もやもやと渦巻いているのだ。この問いに関心を持たずして、心のケアなどありえないだろう。苦しみを癒すことよりも、それを理解することよりも前に、苦しみがそこにある、ということに、われわれは気づかなくてはならない。だが、この問いには声がない。それは発する場をもたない。それは隣人としてその人の傍らに佇んだとき、はじめて感じられるものなのだ。臨床の場とはまさにそのような場に他ならない。そばに佇み、耳を傾ける人がいて、はじめてその問いは語りうるものとして開かれてくる。これを私は『臨床の語り』と呼ぼう。
その意味で、私は、被災という『個人的な体験』に関心を持ち続けたいと考えている。」

1年を経て、この一節が私にとってさらに大きな重みをもって響いてくるようになりました。それは本作・映画「心の傷を癒すということ 劇場版」が、地域・職域・学校などの自主的な活動に支えられて、上映を続けてきたことと大きく関係しています。

上映会のあと、ご覧いただいた方々から丁寧な文章をたくさんお寄せいただきした。また、私自身が上映会にお伺いさせて頂いた折に、参加者の方々からたびたびお声を掛けて頂きました。
文章やお話の中で「震災以来、初めて、震災のことを取り上げた作品を見ました。この作品なら最後までみることができるのではないかと思いました」という、阪神淡路大震災の被災者の方々からのご意見に接することが多くあります。
そしてまた同時に「この作品を見たい気持ちはありますが、どうしても見ることができないんです」という、被災者のお声が私の元に届けられることもたくさんあります。

そのたびに「苦しみを癒すことよりも、それを理解することよりも前に、苦しみがそこにある、ということに、われわれは気づかなくてはならない。だが、この問いには声がない。それは発する場をもたない。それは隣人としてその人の傍らに佇んだとき、はじめて感じられるものなのだ」という上の一節を思い起こします。

本作が、今もなお続く「被災者の方々の心の苦しみ」に、そっと寄り添えるような存在でありたい。そう願って止みません。

2023年1月17日
映画・心の傷を癒すということ製作委員会 安成洋

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映画「心の傷を癒すということ 劇場版」製作委員会
映画「心の傷を癒すということ」公式noteです。 このページでは、ドラマ・映画化にまつわる背景や、主人公・和隆のモデルとなった安克昌さんの思いをより深くお届けして参ります。

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