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第四夜 モノクローム

 こんな夢を見た。
 瞬間、今は夜だと錯覚したが、重たく薄黒い雲の隙間から、眩しい光が差し込んでいる。頭上に手を伸ばして光を遮る。どうやら太陽はまだ上にいるらしい。
 薄暗い景色に目が慣れてようやっと、自分が色のない世界にいることに気がついた。
 空も、街路樹も、車も人も、写真や映画で彩度を落としたかのように色がないのである。私はずっと見知らぬ街を歩いていると感じていたが、もしかすると昔にこの道を歩いたことのあるような気がしていた。
 すべてがモノクローム。
 白と黒のわずかな濃淡が世界を作り出す。
 競争社会は、情報に溢れ過ぎている。この町を歩いていると、この世界は二色で事足りている気がしてくるようだった。白と黒。それぞれの繊細な濃淡を楽しむこの世界で、充分良いではないか。
 自分の身体は迷わずに歩く。
 角を右に曲がる。郵便ポストを通り過ぎる。まるでずっと前からここに来るつもりだったかのように、真っ黒な字で「くれない」と書かれた半地下のバーに降りた。階段の狭さからは想像のつかないくらい中は広かった。バーカウンターに沿って進んだ壁には、色のない女性の唇の写真が飾られている。その壁の前には、葉のない花と形でそうだと分かる、彼岸花が敷き詰められて咲いていた。土のようなものは見えず、黒いタイルの床から伸びているかのように、どれも背筋を伸ばして生えていた。
「キティを一杯。」
 考えるよりも先にそう口が動いた。程なくして、ピカピカとした黒い液体がグラスに注がれて出てくる。
「この世界で、色という概念がなかったとして、果たして色は存在すると思うか?」
 静かなジャズが流れているだけの客のいないバーで、思いがけず背中越しに話しかけられ、心臓が浮き上がる。
 振り返ると、黒いハットを目深に被った女が客席のソファに腰掛けていた。女は白黒の唇を動かして続けた。
「脳が色を認識する方が先さ、人間の脳がないと色は出来上がらない。」
 私は何も言わず、女の真向かいの席に腰掛けた。女はタバコに火をつけ、長い一息でそれをふかした。電灯の光は、白い煙に透けて柔らかくモヤがかかる。
「つまり、今の君は、自分が生きてきた年月をかけて繊細に覚えた色達を忘れてしまった方が生きやすいと感じていたことになる。人間様はずいぶん勝手な生き物だな。」
 女はそこまで淡々と話すとまたタバコをふかし始めたので、はぁと曖昧な返事を返した。
「とある工業化されていない文化圏の人々が持つ色を表す言葉は、三つしかないらしい。二つは白と黒。もう一色は何色だと思う?」
 女が言葉を話すたびに、唇の隙間から白い歯がちらりと覗く。
「強く記憶に刻まれたものから名前がつく」
 女はその黒いハットを丁寧に外して自分の膝に置くと、真っ黒で艶のある瞳がこちらを見つめた。心臓が大きく飛び跳ねた。女の顔は、まさしく私自身の顔なのである。冷や汗をかく。手に持ったワイングラスの中身を思わず飲み干した。女と目の合っているこの一瞬が永遠の時を刻むように長く感じる。
「三つ目は赤さ」
 その瞬間、女の白い顔から、唇だけが真っ赤に浮き上がった。
 ハッとして写真の飾られた壁のあたりを見ると、壁の下に敷き詰められた彼岸花は燃えるような鮮やかさを持ち、モノクロだと認識していた写真はしっかりと唇に紅が塗ってあった。  
「赤を知る、脳が熱くなる、心が震える、喉が渇く、赤を知る、脳が熱くなる、心が震える、喉が渇く、赤を知る、」
 女は何度も繰り返しそう呟くと、途端に立ち上がり、壁に向かって駆け出した。
 たちまち画の前に敷き詰められた彼岸花を踏みつけ、そのまま真っ赤な唇に口づけをする。
 パァンッ。どこからともなく乾いた銃声が聞こえた。
 彼女が小さく声を漏らして崩れる。真紅の血飛沫が舞い、彼岸花の深緋に濡れて輝きを増す。強烈な三色目の情報に酔いしれる。
 薄れゆく意識の中で、彼女が吸っていたのは赤いマルボロの香りだったなと気がついた。

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