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第五夜 月下美人は晩に咲く

 こんな夢を見た。
 ある夏の朝、隣人に植木鉢を貰った私は、一メートルはあろう、その立派な株を眺めている。なんでも、この月下美人という植物は、もうじき白くて綺麗な花を咲かせるらしい。
「その花が咲いた時には、花を愛でる心が、すこしわかるかも知れません。」
 ゆっくりとそう言った隣人の若い男は手の込んだガーデニングが趣味なようで、一戸建てがもう一棟立ちそうな広さのある庭で、いつも名前も分からぬ花たちを愛でている。
 女性の背丈ほどのウッドフェンスで囲われているその庭の全貌は、はっきりと見えないものの、ひとりで楽しむには惜しいほど立派な庭園になっているようで、素性の知れない男の家は、近所でも有名らしかった。
 同居人がいる様子はなく、誰かに自慢をする素振りも見せず毎日黙々と水やりをする姿はどこか奇妙にも思えた。
「君は、どうしていつも一人で庭を手入れしているんだ?」
 椅子に乗ってウッドフェンスから顔を出すと、男は一瞬ギョッとした顔をして、しかし覗いているのが隣人だと分かるとまた穏やかな表情に戻って、こんにちは。と言った。
「こんなに立派な庭なら、多くの人に見てもらえば良いじゃないか。君の庭を使って、何か商売ができるよ。」
 そうだそうだ、庭を使ってカフェやイベントを開けば君はきっとその趣味で儲ける事ができるぞ。
 自ら声を出しながら、名案だと思った。
「それはしないです。興味がありません。」
 男は一切考える素振りも見せずにそう答えたので、こいつは商売への脳がないのだなと、哀れに感じた。
「じゃあ、僕に一つ、鉢植えを買わせてくれよ。その花が咲いたら代わりに僕が、君の名前を売ってあげよう。」
 男は少し考えると、わかりました。と言って、どこからか鉢を持ってきて、慣れた手つきで土を入れ、準備を始めた。
「お金はいりません。育て方で何かわからないことがあれば、いつでも聞いてください。」
 柔らかい表情でそれだけ言って、両手で抱えるほどの大きさの植木鉢を私に持たせた。それを持ち帰り、言われた通り、ベランダの直射日光が当たらない場所に置く。
 月下美人という響きは、なんだかずいぶん高い値で売れそうな響きで、悪い気はしなかった。
それから、男に言われた通り、毎日花の様子を伺い、必要があれば水をやったりなどした。毎日見続けていると、少しずつ蕾が膨らんでいるようである。いつしか、その成長を見ることが、日々の楽しみになっていた。

 ある晩、そろそろ寝ようかと考え、ふと花を見ると、今朝まで蕾のひとつだったそれが、一輪、真っ白で大きな花を咲かせていた。
 私は思わず大きな声が出そうになるのを堪えながら、売人に電話をかける。
「ついに花が咲いた、月下美人は本当に月の出る晩に咲いた。買い取ってくれ。僕が咲かせた花だ。」
 力強く咲いたそれをたしかに目に焼き付け、眠りについた。あの綺麗な香りも花びらも、きっと高値で買い取ってくれるぞ。早る気持ちと同時に、我が子を手放してしまうような、もの寂しさも感じていた。

 翌朝、売人が家を訪ねてくると、花は萎れていた。

「咲いただなんて嘘じゃないか。こんな花は買い取れないよ。」
「僕が嘘を言ったとでもいうのかい。毎日丁寧に手入れをして、やっと花びらが開いたんだ。昨日の晩には確かに咲いていたさ。」
 とにかくこれじゃ無理だ、そう言って商売人は帰っていった。酷く自分が惨めに思えてきた私は、残りの蕾が咲くまで待つことにした。

 数日後の晴れた夜に、その時は訪れた。
 残りの蕾が開いたのである。
 今度こそ、と電話を手に取ったちょうどその時、チャイムが鳴った。
「香りが漂ってきました、うちの猫もこちらが気になる様子でしたので、そろそろかと思いまして。」
 隣人の男が、白い猫を抱えて訪ねてきたのである。
「咲いたよ、見てくれ。僕が咲かせた月下美人さ。」
「えぇ、綺麗に咲きましたね。」
 男は鉢植えの前にしゃがみ込むと、猫を撫でながら微笑んだ。真っ白な猫も、嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らしている。
「これからこの花を売ろうとしていたところさ。」
 私が自慢げにそう言うと、男はこちらを見ずに、それはできません。と答えた。
「月下美人は、晩にしか咲きません。朝になると、美しい花びらも、香りも、失われてしまいます。」
 呆気に取られた私は、足元に擦り寄ってきた猫を見ながら、曖昧な返事をした。
 そしてその儚さにやっと気が付き、その植物が、どうしようもなく愛おしく感じてくるのである。
 月夜に照らされ白く輝いた猫が、ニャアと鳴いた。




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