南瓜の痛覚
---顔がカボチャになっている。
その朝、私は洗面台の鏡を見ながら自分の神経という神経が驚愕に狂う瞬間を感じた。
嬉しさとは真逆に働いた興奮のあまり込み上げた胃液をそのまま排水口に吐き出す。
昨日はハロウィンの週末、自分の店だけとは言えだいぶ飲んだし酔っ払ってたな。
楽しくも感じられない場で好きでもないお酒に潰されそうになる商売に嫌気がさす。もっとお酒が強かったらよかったのに。
抜け切らないアルコールが混じった吐瀉物の後味を不味いと思える舌がある、酸の強いツンとした香りを認知する鼻も効く、勢いよく捻った水道から流れる水の音も聞こえる。
容姿を視界に入れない限りは思いの外違和感のない目や鼻、口の中の状態に驚きながら、口をゆすいだ。
恐る恐るその顔に触れる。
昨晩までは弾むほど柔らかかったはずの頬はぼこぼことした皮に覆われていた。
お金をかけて綺麗に伸ばしていた髪の毛はどこにいった?
つるりとした頭のてっぺんには、緑色のゴツゴツとした突起があるだけだった。
男女が入れ替わる内容のドラマで見たことがある、自分の容姿が思わぬ形で変化していたことに気がついた瞬間の驚きは、思いの外可愛らしい表現ができる状態ではないことを知る。
どうにか皮を剥ごうにも、その刺激はまるで自分の元の肌だったかのように感覚が付随するのである。
無理に爪を立てた皮から血が滲む。痛い。痛い。嫌だ。死にたくない。
ふと、ノベルゲームに良くある選択肢を思い浮かんだ。
『ある朝顔がカボチャになっていた、どうする?』
・元に戻そうとする(痛い)
・受け入れる(最悪)
・いったん逃げる ←
いっそのこと死んでしまいたいくらいだという感覚を初めて知った。それくらいの衝撃だが、とにかくまずは冷静になろうと言い聞かせる。深く、息を吸って、吐き出す。
むやみに抗うことはやめた。
自分の身は大事にと、息を吐くように死にたいという友人たちにいつも言い聞かせて生きてきたではないか。
私は死なないぞ。
状況をなんとか受け入れようと考えるだけで嗚咽混じりの涙が出そうなほど、滑稽で醜いその姿を見ながら、ぶるぶると震える身体を自分の両手で抱きしめた。
私は生きる。生きている。
見た目では顔のサイズが3倍ほどになったように思えたが、とにかく姿を見なければ、首から上が多少大きく、やや重くなったように感じる程度の変化だということに気が付いたので、部屋の中の鏡という鏡を見えないように塞いだ。
まずは今日、一日を乗り切ろう。明日には元に戻っているかもしれない。
スケジュール帳を見ると、今日の予定は飲み屋のアルバイトだけだった。
しばらくバイトは休もう。こんな顔面じゃ騒ぎになった挙句お店が回らなくなるだろう。
生活費はどうしよう。少しなら貯金があるか。
なるべく誤解を生まずに納得してもらえそうな言い訳の文章をメールに打ち込む。
朝5時の閉店から帰って雑にメイクを落として泥のように布団に倒れ込んで眠り、ふと10時に目が覚めてこの有り様である。
スタッフも店長も眠ろうとしている頃か。
「今朝、家の中で転んで顔の骨を骨折してしまいました。かなり腫れているのでしばらくーーー
状況等含め何一つ考えずに打ち込んでしまった故に後戻りはできなくなりそうな理由だが、親族を亡くすような、よくあるネタよりは良いだろう。
このまま何日も休めばクビになるだろうか。
いや、そんなことはないはずだ。
移り変わりの激しい大都会、女性キャストがコロコロと入れ替わる中、3年間働いている今の店では主要メンバーの一人だろうと自負している。
それ相当のことがない限りはクビにはならないだろう。ただ、こんな容姿じゃやっていけないのも確かだった。
所謂「顔採用」を基準とした高級ラウンジで働いているということを抜きにしたとしても、しばらく接客業は厳しそうだ。
自分の唯一の売りは恵まれた容姿だと、20代半ばのこの年になってもそう、思い込んでいた。
幼い頃から顔は褒められていたし、努力の上に成り立つはずのスタイルは、ほぼ毎晩お酒を飲む今でも高校生の頃からほとんど変わらない。
だからこうしてモデルを目指して東京に出てきたのではないか。
雑誌やコレクションで輝く、煌びやかな世界を目指して。
......それがいつからかこんなに金とアルコール、欲にまみれた生活になってしまったのか。
唯一のそれも誰もが振り返るほどのものではない、歳を重ねれば代わりはいくらでもいる使い捨ての若さ。
一人暮らしの広い部屋、貰い物のバッグやアクセサリー、下品に胸元が開いたタイトなドレスを着るために生きていたのかと、急に全てが馬鹿馬鹿しくなる。
周りの心配を振り切ってこの大都会東京に来たのだ。少なくとも3年間。3年間も目的を見失っていたことを痛感させられてしまったようだった。
声にならない声を漏らしながら、店の出勤と付き合いの飲みの予定でほとんどが埋まっている、ある意味空っぽのスケジュール帳を放る。
「わたしはどうして生きてるんだろう」
答えの出ないメンヘラな思想はとっくの昔に考えるのをやめたはずだった。
誰かがどうにかしてくれる世界だと思ってた。
この姿で外に出れば気味悪がられる、理解なんてしてもらえない。私だって理解できないんだから。
長く深いため息を吐いた。
スマホを開いてメールの作成画面を開く。
『退職します。』
完全に気の迷いからの送信だった。流石に混乱している自分を感じて声にならない笑いが込み上げた。3年間の生活の中心をこんな一言で終わらせられるはずがないだろう。
スマホを置こうとしたその時、通知音が鳴ったので反射でもう一度画面を開いた。
『顔の傷は大変でしょうが、メイクもできないと思いますので、仕方ありませんね。お大事にしてください。』
まだ一通目の返事は返ってきていなかったが、''退職''その一言にはすぐにレスポンスが返ってきたことに驚く。
今まで一度だって弱音を吐いた事はなかった、当日の欠勤もしなかったし、遅刻だってほとんどしてこなかった。
頑張れと言われただけ頑張るのが自分なりの正義だと思っていたし、誰しもその責任感の上で規律を保って生きていると信じていた。
今を必死に生き続ければ、きっといつかは報われるのだと、思い込んでいたからだ。
---甘かった。
こんな形になってようやく、自分が自分のために生きてこなかったこれまでが、どれほど虚しいものかということに気がついた。
自分の身を粉にして心を殺し続けて生きるにはあまりにも勿体無いほど、世界における自分は案外、ちっぽけなのだ。
……必要とされていると信じていたのは私だけじゃないか。尽くし続けていたのは私だけみたいじゃないか。
見返りを求めて生きてきたとは思っていないが、信じられないほど呆気なく終わった私の現在唯一のコミュニティ、立場、価値、意味。そして生活の主軸。
---そういえば店には新人の若い美人が入ってきたって言ってたなぁ。
お局は要らないってわけね。
足踏みしているとどんどん超えられる、まるで世界の縮図みたいだった。
私はいつから進もうとすることすら忘れていたのだろう。
頬を伝った涙を拭うと、触れた肌は硬く冷たく、絶望感が増すばかりである。
冷たい床に座り込み、糸が切れたように声をあげて泣いた。背中をつけた冷蔵庫があたたかかった。
綺麗に整えた化粧は落ちるし、目が腫れるからと感情的に泣く事は避けてきた。何年振りにこうして泣いているのだろう。
泣いていても何も変わらない事はわかっている。
ただ、今はすべて許して欲しかった。誰に対してかもわからず、ごめんなさいと何度も呟いた。
ごめんなさい、ごめんなさい、私。
周りから見た自分だけが綺麗に生きていくことに精一杯で、心の中の自分を大事にしてあげられてなかった。人には自分らしく生きてと言えるのに、置き去りにしてしまってごめんなさい。
泣き疲れて横になる。ほとんど弾力のない頭の下には近くにあったクッションを挟んだ。このカボチャは時間が経つと腐ったりするんだろうか。腐って崩れ落ちたら元の顔が出てきたりしないだろうか。
私は生きる。
......なぜ生きる?
自分の生きる意味とは?価値とは?
目を閉じて、ぼんやりと世界をみる。
初めて自分が死にたくない理由を、
生きていきたい理由を考えた。
---私が死んだって、世界は何も変わらないのだ。
悔しかった。少なくとも今の私ぽっちの自死でこの退屈な世界は良くなったりなんてしないのだ。
止まるよりも進む方が、何か変えられるかもしれない。それならばせめて、生かされている間で何か、生きている爪痕を残したかった。
顔を失った、仕事を失った。話せる友人家族もいない。
心臓だけが馬鹿みたいに同じリズムを刻み続けていた。
-----あれから何時間が経っただろう。
出勤時間のちょうど1時間前、夜の18時の固定アラームで目が覚める。床で眠っていたようだ。
こすった目元に妙な手触りを覚える。
昼間の絶望は夢ではないようだった。
床で寝てしまったせいかずっしりと重い身体を持ち上げる。
外の状況はよくわからないが、とにかく何か情報を得られないかインターネットに頼ることにした。
『顔面 カボチャ 突然』
手がかりの掴めない検索ページを3ページほど進んだ先、1件のサイトだけが目に止まる。
『パンプキンマンの日記』
ハンドルネームか何かかと思ったが、どうやらとあるバーのマスターが運営するブログらしい。
『オーナーである僕はある日、顔が突然パンプキンになりました。パンプキンマンが誕生したのです。』
やけに怪しげだが、これこそ私が探していたものだと確信を持つしかなかった。
『オーナーは顔がパンプキンです、会員制バーなので顔がパンプキンの人以外、一見さんはお断り。』
『人生は立ち止まっても良い。時間が経てばまた少しずつ進めます。パンプキンマン』
カボチャをなぜ執拗にパンプキンと書くのかがわからず胡散臭さを帯びていたが、直感がこの人に連絡してみるしかないと言っていた。
ブログの最後に記載のある電話番号に電話をかける。
「もしもし、パンプキンマンさんですか?」
4回目のコールで繋がった。堰を切ったように声を発した私は、自分の声がこんなにも大きく出たことに驚いた。
「そうです。」
あの内容のブログでは冷やかしの電話も多いだろうに、電話の主はやけに落ち着いていた。
「あの、今朝、顔がカボチャになっていたんです。それで、どうしたらいいのかわからなくて、もしかしたら同じかもと思って。」
「そうですか、それは驚いたでしょう。ぜひ一度うちのお店にいらしてください。」
「今夜、今夜これからいきます。」
「''津がわ''というお店の隣、抜け道を通った右側に隠し扉がありますから、そちらを4回ノックしてください。あなたは決して一人じゃないから、安心してくださいね。」
驚きもせず受け入れてくれるその一言に胸が熱くなった。
震えた声で何度もお礼を言って、電話を切る。
私は一人じゃない、それだけで生きていても良い気がした。心の孤独が一番に精神を蝕んでいたことを知る。
お気に入りのワンピースを着て外に出る。夜風が少し冷たかった。泣いても腫れないカボチャの肌は悪くないかもしれない。
街灯が照らしたオレンジ色の光沢を夜に溶かして----
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