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9月19日「育休を考える日」で若き父親であったわたくしの情けない日々を思う

もう28年前になります

育休という言葉はなかったです。そんな時代です。
営業をしていたので、簡単に休みは取りにくい立場です。
でも会社に嫌われながらですが、週1回月曜日必ず休みをとり、
妻は仕事に出かけていました。

たかが週に1回、大変です。
何せ母乳を直接やれないわけですから、冷蔵庫にある妻の母乳を人肌にあっためてやっていました。

わたくしは仕事柄、女性の社会参加を応援する立場だったので、自ら率先してよかったと思います。

でも、子育ては大変だけれど、その分愛情は増しますよね。変な事言いますけど。今でも、寝ていたら寝ぼけて起きて「どうした?」とか夢の途中で目を覚ますこともあります。

子どもが成長するにしたがって、周りの物を段々上のほうに置いていくようになりますよね。間違えて何かを食べたりしたら大変なので。
でも、こんなことがあったのです。

営業はヤマハ音楽教室だったのですけど、上司(特に二代目社長)からは「ピアノを売るまで帰ってくるな」という叱咤(激励はない)が再三あるので、夜遅くまで町中の民家を恐る恐る営業に回るのです。
なので30代でしたが、疲れはたまります。

そして事件は起きたのです。

月曜日、2歳に近い1歳児の娘と2人。私は日頃の疲れが溜まっていたのか、つい居眠りをしてしまったのです。「ハッ!」と気が付いたら娘が目の前にいません。

「ぞー!」と悪寒が走りました。
娘は幼児用のいすを台にして台所に上ってシンク内のたらいの水に浸かって、つまりプール替わりにして「ピチャピチャ~。ピチャピチャ~。」って遊んでました。
ずぶ濡れの娘をすぐ抱き上げて着替えさして、抱きかかえました。
(何もなくてよかった。)、正直安堵しました。

当時は団地の5階に住んでいたので、ベランダの取っ手が固いといっても何が災いするかわかりません。
帰宅した妻からは激怒されました。

幼稚園に入りました。送迎バスを迎えに行かなければなりません。また居眠りです。近所のお友達から電話が入り「ご主人大丈夫ですか?」
いやはやお友達のお母さんに平謝りで迎えに行きました。

ある日、月曜日トラブルがあって幼稚園に行っている間、会社に向かいました。かなり深刻なことでバタバタしたので、送迎バスは娘を幼稚園に連れて帰り連絡がありました。

あーこれも平謝り。
なんとダラシナイ父親だったのでしょうか。

それでも子どもは成長してくれます。毎日エネルギーと安らぎが与えられます。だから仕事は人一倍頑張れました。

わたくしはトランスジェンダー

そうなのです、子どもが生まれたら父親の自覚でトランスジェンダーは病気と思っていたので治ると思ってました。(当時はそんなクリニックないですぞ。)

しかし結婚前に入会していたLGBTの集まりには結構マメに参加するため仕事終わりに1時間ほどかけて車で都会へ出向いてましたので、それもやめていたんですが、翌々「性同一性障がい」をインターネットで検索すると(勿論、この時はパソコンはありません。インターネットもありません。つまり数年後にようやくわかったのですが…)

持って生まれた、母親の胎内にいるときにそうなってしまうのですね。
いわゆる病気は再発し、また集まりに参加、妻からは浮気と責められなすすべなし。
結局、離婚する結果を迎えたのです。

でも、神様はいるんですね。それから10年。FACEBOOKをやり始めて、娘の名前を検索したら出てきたのです!丁度20歳でした。

コメントで「○○か?」と打ったら、「そうだよお父さん、久しぶり!」
その夜は眠れませんでした。後日再会することになります。娘を見つけたらすぐわかりました。思い切り抱きしめました。

ただ、わたくしはFACEBOOKでトランスジェンダーをカミングアウトしていたので娘も元妻も知っていたようです。

名前を変えてFACEBOOKに登録して、2つ作ってあったのに凄いですね。すぐばれました。「あの人、お父さんやろ。まあ、ええん違う。」ですと。

本当に人として恥ずかしいです。今も数年に一度会いますが、もう娘も28歳。再会してからは誕生日やクリスマスにコメント送る程度ですが、あまり彼女の方に向かないように心がけています。
今は「早く結婚できますように」って願っています。

(瑚心すくい)

是非、サポートよろしくお願いいたします。日々自己研鑽し学びの本の購入と色んな団体「盲導犬協会」「国境なき医師団」等への寄付の資金にもしたいと思っています。お礼は更なる良質な記事を書きますのでよろしくお願いいたします。