私たち姉妹を育ててくれた祖母

姉と私は祖母が育ててくれたと言っても言い過ぎではありません。

おとといは祖母の誕生日でした。

生きていれば96歳です。祖母はおととし旅立ちました。

祖母がおいしそうにおまんじゅうを食べている姿を思い出します。

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祖母は50代まで小学校の先生だったそうです。

定年まで続けられなかった理由は、
私の父の仕事の転勤のため、土地を離れる必要があった母が「ついてきてほしい」と祖母に頼んだからだそうです。

なぜ、長年続けてきた小学校の先生をやめてまで母についてこようと思ったのかはわかりません。

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物心ついた時から祖母は一緒に暮らしていました。

父は祖母を無視しました。そんな状態を、繊細だった私は父と祖母が顔を合わせないようにしなくてはと思っていました。小さかった私にはそういうことしかできませんでした。

ご飯も祖母が一緒の食卓につくことはなく、2階の自分のお部屋で食べていました。
お正月に父と祖母が顔をあわせて食べる食卓がとても嫌だったことを思い出します。
 
母は精神的な病気を患っていて入退院をくりかえしていました。
後に祖母に聞いた話です。

母「この子達を〇して、私も一緒に〇ぬ」

その言葉を聞いた祖母はこれは大変だと思ったそうです。

祖母は母の代わりに私たちに寄り添ってくれました。

幼稚園の運動会に来てくれたこと。
小学生の時、一緒にお着替えを手伝ってくれたこと、忘れません。

祖母は人が好きな人。
小学生の時お友達を連れてきたところ、おはぎを作って出してくれました。

お友達のお見送りは玄関でみつゆびをついて。

大人になってもその友達が私の祖母を懐かしそうに話してくれます。

大きな病気を何度かして手術もしたことで
大学病院に通っていました。

かつらをつけてお化粧をばっちりしていいお洋服を来て。病院では喫茶店に入ってカニグラタンを食べたり、食堂でラーメンを食べたり。

私にとって大学病院への付き添いは楽しいものでした。

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時はすぎ私は結婚して娘たちが生まれてました。

帰省したときはとても喜んでくれました。子供たちを膝の上に乗せてくれました。

私や子供たちにお小遣いをくれました。

祖母はラジオを聞くのが大好きでした。野球、政治、すもうに歌、あらゆるジャンルを聞きました。頭はとてもしっかりしていました。

最後何年かは老人ホーム暮しでした。祖母にあった素敵な老人ホームでした。もう私のことはわからなくなっていました。

祖母がなくなったことは姉からの電話で知りました。

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葬儀場で姉と私で横たわる祖母の髪の毛をシャンプーさせてもらいました。洗いながら涙がたくさん落ちてきました。この時のことは一生忘れないでしょう。

素敵にお化粧をしてもらって、着替えさせてもらって祖母のものと孫たちの写真とともに旅立ちました。


祖母は強くたくましく生きました。
姉と私が生きていられるのは祖母のおかげです。

改めて、おばあちゃんありがとう。
天国でゆっくり過ごしてね。


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