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どん底の十四歳、決意の十五才

中学2年生の夏、それはある日、突然に始まった。

私は東京都に在住する、万年オール3の平凡な中学生だった。
その日も、いつものように気怠い気持ちで制服を着て、部活の道具と教科書を詰め込んだ、パンパンのエナメルバッグを背負って、いつも通りの通学路を歩いて学校へ向かった。何の変化もない、日常を繰り返しているはずだった。

取り立てて理由はないが、いつも朝一で学校に向かった。
誰もいない教室は好きだった。私の次に2、3人の友達がやってきて、先生が来るまでの間にカードゲームをしたり、他愛もない話をした。
先生がやってくると、ファイナルファンタジーの話で盛り上がった。
それがいつもの朝だった。

しかし、それがやってきた朝は、騒がしかった。私が少し遅れて学校へ行くと、いつもならその時間にいるはずのない女子がロッカーの上に座っていた。
彼女は私の顔をジーッと目で追って、私が席につくのを見届けると一言を放った。
「なんで学校にいるの?居なくなれよ」
あまりにも日常生活に馴染みの言葉だったから、言葉というより、鼓膜の振動として伝わってきた。その様子を見咎めて、彼女はもう一度言葉を換えて言った。
「死ねよ」と。訳が分からなかった。

中学生のコミュニティなんて、「スクールカースト」という言葉ができるくらいには、キッパリと分かれている。今で言えば、所謂、「陽キャ」と「陰キャ」だ。
その中でも、中心的なグループが上位カーストに来て、順番に下位へと向かっていく。私の学年は7クラスあって、ひとクラスに35人前後いた。単純計算で約230人の生徒が学年にいる。最上位には、勉強はさっぱりなのに、喧嘩が強くて遊び呆けいている男子と、メイクばっちりで既に処女を捨てている噂が立つ女子のグループが来ていた。

最悪だったのは、私に「死ね」の一言を放ったのは、その最上位にいる一人だった。だから、そこからの私の学校生活は急降下していったことは想像に容易い。
7クラス全てに彼女の仲間がいる。そのグループに刃向かえば、自分の立場が危うくなる。そうなれば、自然と私の周りから人は居なくなっていった。子供の世界なんて、分かりやすく弱肉強食なのだ。生き残っていくためには、何らかの”力”が要る。私にはそれがなかった。

さて、7クラスすべてに敵がいる学校生活が始まった。授業中にも、私への罵詈雑言は止まない。そして、先生もそれを咎めない。なぜなら、最上位グループを敵に回すと先生たちの立場も危うくなるからだ。先生も人間である。
毎日、面と向かって「死ね」「消えろ」などのフルコースを面と向かって浴びせられる生活も、半年が経つと慣れくるものだ。心は何も感じなくなっていた。
しかし、身体は正直だった。毎日、お腹を下すようになり、慢性的な頭痛に悩まされるようになった。薬がお友達になった。

いよいよ、進路選択が始まる十五才。私の様子がどんどん悪くなっていくのを見ていた母は、私がいじめられていることに薄々気がついていたらしい。学校選びをしているときに、母が私に言った。「このままだったら、またあいつらと同じ世界に行くことになるよ」、と。
偏差値教育の日本社会では、良くも悪くも学力によって、住む世界を変えることができる。十五才になる春に、私は難関高の受験を決意した。それも県外の。
しかし、冒頭で述べている通り、万年オール3である。偏差値にして45くらいしかない。試験がある1月までに偏差値を20上げるという無謀な挑戦が始まった。

結論から言おう。なんと”合格”した。より正確に言うと、補欠合格だったから繰り上げで第一志望に合格した。

次の春には、誰も今までの私を知らない世界で”新しい始まり”が来る。
苦手だった数学は、小学校の算数からやり直し、得意だった英語の点数で引っ張った。寝食を忘れて、身も心も注いだ一年が実った。私は、どん底の中で希望を掴んだ。

十五才の決意から十年以上が経った今、Twitter(X)やインスタの「友達かも」に出てくる、当時私をいじめていた人たちの様子を見ると、虚しい生活を送っているように見える。それは、私が学ぶことで、努力をすることで人生を拓いていくことができると体得しているからだろう。もちろん、彼ら彼女らの幸福を否定するつもりはない。

今の充実した仕事も、生活も、あの時、地の底から這い上がる決意をしたからだと心底思う。学ぶことは社会や世界への目を開いてくれた。今でも年間で100冊程度の本を読むようになった。
それも、すべては、あの日に、人生を諦めることがなかったらからだと思う。


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