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こころのかくれんぼ 6      【いま やっとできたこと】

noteを始めて、ひと月が経とうとしている。

自分の事を書くと決めてから、ひとつの変化があった。
これまで避け続けてきた「皮膚や外観」そして「当事者達の感情」に触れる作品や書物を、やっと手に取れるようになったのだ。
本当に、やっとだ。
これは自分にとって大きな進歩だった。

ハンセン病療養所の方々の詩集
見た目問題に関わる方たちの語り
障害や差別をテーマとした映画
身体表面に疾患をもつ人のトラウマ
etc・・・

外観に病気を持ち、生き難さを抱える方たちの語りに深く触れることは、それまで「私は大丈夫」と少しの強がりで支えてきた心や、普通であろうと装い続けた社会的側面が大きく揺れて崩れてしまう感覚がして、怖かったのだ。臆病な私は差別や蔑視の事実に触れることで、自らが病を持つ身で在ることを再認識し、心の境界線を強く引いてしまう予感があったのだ。


勝手に思い込んでるだけでしょ?
被害妄想じゃないの?と笑われてしまいそうだけれど…。
現実に起きている様々な情報を避けることで、脆い自分をかろうじて保ってきた側面があると気付いていたからこそ、弱さを超えて踏み出すには私なりに相当の頑張りが必要だったのだ。


でも意を決して作品に触れてみると、恐れていた状態とはならなかった。
それは決して、悲痛さやネガティブさのみを助長するものでは無かった。
各々が見た目の変化に際する身体的・社会的・精神的な苦しみ、そして自己の存在と意味を問う深いスピリチュアリティの痛みを抱えながらも「かけがえのないひとりの人間」という存在として立っていることが、深く深く響いてきた。迷いながらも、その人にしか生きられない人生を歩んでることを、教えてもらえたのだ。


顔面や身体表面に疾患/外傷のある人たちとその家族は、患者といってもその症状の多くは生死に関係がないことが多く、医療現場では大きな関心をもって見られてこなかった背景がある。健常者とみなされつつも、外観が異なる事で職業差別や日常での蔑視という苦悩を抱えて生きている人も多い。
その事実も含めたうえで、自分と他者を深く受け入れること、健常への憧れが同居している事を素直に受け入れ、人は何をもって人なのかという深い問いかけと共に生きる姿は、縮こまっていた私に手を差し伸べてくれた。

人間は
「ホモ・クーランス(配慮する人/ケアする人)」であると同時に
「ホモ・パティエンス(苦しむ人)」であり、
「ホモ・コンパティエンス(共に苦しむ人)」である。
だからこそ、生きている人間には痛みがあると言われている。
この痛みは極めて個人的なものだけれど、自分が共に痛みを分かち合うのは愛そのものであり癒しである。人は自己の痛みを契機として他者の痛みを自己の痛みとすることができる。よって癒しは、他者との関係性において他者と共にあることを意識化し、共に痛みを分かち合うことの中に存在する。

「顔とトラウマ 医療・看護・教育における実践活動」より

違う人間同士の分かり合えなさを素地としつつも、自分の弱さを開示しながら生きるその姿から感じるものはまさに「癒し」に近い感覚だった。

誰もが皆、その人だけの痛みを持ちながら生きている。
だからこそ、苦しみは優しさの種となり、痛みは自分と他者を見つめるぬくもりへ変わり、深い孤独はゆるやかで愛あるまなざしへと生まれ変わることを誰に教えられることなく、自らの経験から自然に学んでいけるのだろう。

誰かと触れ合うことは怖い。
自分を見せることも怖い。
見ようとしてこなかったものに向き合うのも怖い。
でも、同じ場所にずっと立ちすくんでいては、何も変われない。

そして何よりも、自分にある痛みを見ないようにすることは、自分を慈しむことから離れるばかりではなく、人の持つ痛みからも目を背けて遠ざかり、結果として周りの人や社会や世界との関係を自ら断ち切ってしまうのだろう。関わり合いながら、触れ合いながら、少しの痛みを感じあいながら…
誰かと生きる世界を広げる可能性は、自分の在り方そのものにあるのだ。


だから、強がってばかりいないで、もっと素直に・正直に。
「つらいな」「助けてほしいな」「こわいな」って言える私になりたい。
私の周りには、その言葉を受け取ってくれる人達がいるのだから。
人を信じる勇気が、これからの私にはもっともっと必要なのだろう。
noteがその第一歩であることを、今改めて感じている。



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