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目の前のひとのために

こんにちは。こころの相談室ねこのての福地です。
今週からメイン職場にちょびっとだけ復帰しました。
山積みの郵送物を、まだ、全部は開くことができずにいます。
ひとつずつ。ひとつずつ。
そう自分に言い聞かせながら、片付けては上に置かれるものを、上から順番に取り組むような毎日です。

さて。
臨床の話をしている時に、私は「目の前のひとのために」という言葉を、最近、多用しているなぁと感じたのです。
カウントしているわけではありませんから、私の体感でしかありませんが、この言葉が今の自分にとってのキーワードなのでしょう。
どんな人が同業者だったら嬉しいか。
どんな心理職であってほしいか。
仲間であると感じるのはどんな人なのか。
それを一言であらわすとしたら、「目の前のひとのために」一生懸命に役に立とうとすることが、私の思い描く理想像なのかもしれません。

が、それだけでは足りないなぁということを考えながら、今日は出勤しました。
目の前のひとのために頑張ることは当たり前。
目の前のひとのためにお役に立つように、自分の少ない知識と技術と経験を振り絞るのは、専門職ですもの。
でも、心理職だとしたら、目の前にいないひとのことも思い描きたいなぁと、思ったのです。

目の前にいるクライエントさん。
その背後には、今ここにいない御家族や御友人、その他の人たちがいます。
更にその背後には…と想像を広げていくと、公認心理師の援助の対象が国民全体になるのも納得しますし、できれば、国民に限らずに人はすべてと思えるような自分の心の持ちようを維持したいものです。

私はこうやってSNSも使いますから、今、目の前にいない人たちに向けて言葉を発しているわけです。
誰かに向けて話しかける言葉でさえ、私が想定していない人の目に留まることもあるでしょう。
そうやって、自分が気づいていない人たちがいることを忘れずにいたいと思ったのです。
目の前にいないからといって、そこにいないわけではありません。
自分が見ようとしていないだけ、自分が気づいていないだけ、そういうことがいっぱいあります。
そして、そういう感覚を持っていないと、たやすく人を傷つけるような言葉を発しやすくなるような気がするのです。

ここから先を書くことは、もしかしたら、批判されることもあるかもしれないと、ためらいながら、でも、恐れずに書いておきたいと思います。
私は臨床心理士を取得したのが昔過ぎてGルート受験だったものですから、いわゆるGルート批判というものがわきあがるたびに、なんだかなぁ…ともやもやしてきました。
自分自身のことだけはありません。
相談業務と各種研修を通じて、この3年間で100人以上の心理職の方とお話してきました。
その中には、臨床心理士という資格と経歴を持たずに、公認心理師という資格を取得し、現在、心理職としてあちこちで働いている人が現にいます。
これまでの資格や職歴を活かしながら、素晴らしい臨床をなさっている人たちがいるのです。
理論や技法についての知識が足りていないから、臨床心理士を持っていないから、あるいは、この年齢で初心者だからと控えめにおっしゃる方が多いです。
でも、そのケースのお話をうかがっていると、立派に心理職だよ、立派な心理職だよと拍手を送りたくなるような方たちと何人もお会いしてきました。
目の前のひとに役に立とうと全身全霊をこめてお仕事をなさっている様子をうかがうたびに、私のほうが元気をもらっているような気がします。

臨床心理士にもいろんな人がいます。
そうでない人にもいろんな人がいます。
主語が大きくなればなるほど、いろんな人が中に含まれます。
わかってはいるのですが、私は、公認心理師というものが既にスタートを切った以上、よりよいものになっていってほしいと思いますし、その一員として、ささやかな一助となれれば嬉しいと願い続けながら、今日もお問い合わせをお待ちしています。
目の前にいないひとのことも忘れることなく、目の前のひとのために精一杯、自分の知識と技術と経験と、場合によっては気力と体力と、使えるものは何でも使って、お手伝いができると嬉しいなぁ。

トップ画はいつもダラズさんという方の絵をお借りしています。今回はまた中身と無関係にチンアナゴ。この絵が気になって気になって。
どこかの水族館の、コロナで閉館している間に人見知りになったチンアナゴさんたちは、その後、どうしているのかしら。

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